伝・間喜兵衛著『功名咄』からもう一つ。先の八木氏一件に続き、刊行された上編の掉尾を飾るのは、城渡しをめぐる話題である。
まず褒められているのが加藤肥後守の家臣で肥後街道ぞいの九町の城を預かっていた本部新左衛門。加藤忠広の改易に熊本の重臣たちがおろおろするなか、本城はどうあれ九町は忠広の墨付きがなければ渡さぬと宣言し、戦争準備を整える。これで熊本も籠城の覚悟ができたという。江戸にも情報が伝わり、目付某より「墨付なしに城を渡すまじとはもっとも。いかにも持参した」と申し越し、確認のうえで「この上は申すべき様もござらぬが、少しお待ち下され。掃除してお渡し申す」と挨拶し、きれいに始末して静かに退去したという。この新左衛門の行動は「義あつて和あり」と絶賛である。
これに対して不評なのが丹後宮津の京極高国家臣たち。
改易に際して藩論が一致しないままで、受け取りにくる途中の青山大膳亮に「天下へ弓を引くこともならず、このまま城を渡すこともできません。お慈悲に丹後守の墨付きを」と願い出る。大膳返答に「渡すとも籠城するとも勝手次第」と突き放される。
そうかと思うと別グループの三十人ほどが「宮津への道案内をいたします」と申し出る。つまり内応者だが、こちらにも「無用だ。さっさと戻って籠城いたせ。踏み潰してくれるわ」と恥をかかせて追い返す。
さて、いよいよ受城使がやって来ると、家老らは玄関前に整列し自分らが切腹するよりないというと、「あいやしばらく。丹後殿の墨付きはこれにある」と出されたという。
主君の墨付きを得て開城したのは同じでも、「雲泥万里の違」だと筆者はいう。要するに死の覚悟をもってするかどうかなのだ。「義を金石に類し、義に依て命を捨る事は鵞毛よりも軽くす」るときは、自ずから高名を得るだろう。
この項目も、赤穂開城の経緯と重ねてみるに出来過ぎの感なきにあらず、ではある。真偽はともかく、武士の感覚を知る材料にはなるだろう。