伝・間喜兵衛著『功名咄』に興味深い逸話が載っている。
寛文頃書院番頭をつとめていた八木兵助という旗本、江戸城内で目付横田甚右衛門に書類を渡すのに、ちょっと遠かったので投げてしまった。横田は投げずに持ってくるようにいい、八木はそれに従ったのだが、その返却に今度は横田が投げ返した。兵助はむっとしたけれど、殿中ゆえ堪忍し、下城後あらためて横田を訪ね討ち果たし、自身も横田の家来たちに討ち留められた。
兵助の子息某が裸馬に乗って駆けつけると、横田次郎兵衛(甚右衛門父)が出て事情を説明した。これに対して某は「甚右衛門死骸をお見せ候え。さなくしては立ち去りがたし」と述べ、次郎兵衛も「もっとも」と答えて、死骸を見せたという。
『寛政譜』によれば、八木兵助(豊次)が殺害したのは横田甚五郎(景松、次郎兵衛述松弟)である。兵助の子に清十郎(豊重)がいるが、これが某にあたるかどうかはわからない。が、その詮索より重要なのは著者の論評である。
まず甚右衛門については、最初に兵助の無礼を咎めながら自分がその無礼を繰り返すという驕慢ぶりで「此心根故にこそ…手もなく討たれ給ふ」と手厳しい。これに対して兵助は殿中では堪忍して退出後に討ったことが「義あり信あり忠あり最も勇あり」と絶賛。いささか褒めすぎの感もあるが、この観点だと浅野長矩の短慮は否めないようだ。
横田次郎兵衛について、「流石武功の家を嗣給ひし人なり。老しやかに」思われる、とはまあまあ穏やかな評価であろう。
そして、八木の子息については討ち果たすべき覚悟できながら、次郎兵衛の言い分を聞き、死骸まで確認していったことが文句のつけようのない「神妙なる仕形」だと誉められる。
たぶん現代人とは異なるのだが、双方が死んでアイコだという感覚こそ赤穂事件の根底にある武士の心性だろう。吉良が存生では城を明け渡すわけにはいかない理屈である。
間喜兵衛の著述だとするのは出来すぎの感がある。が、考え方はたぶん遠くない。