重障害児(者)の言葉や気持ちを感じ取る『フィーリング・コミュニケーター志づえ』です。

あなたのココロを《スーパーヒーリング・ハグ》で癒やしますアップ

 

 

こんばんは(*^▽^*)

訪れてくださった方々。いいね下さる方々。

いつもありがとうございますm(_ _)m

励みになりますラブラブ

 

自閉症スペクトラムが発覚する前のわたしが

 

『どんな風に世界を感じて、見えていたのか』。

 

 

それを、今現在困っている当事者の子ども達やご家族、支援している方々の

 

1つの情報として知ってもらえたらいいな、と思います。

 
さそり座さそり座さそり座さそり座さそり座さそり座さそり座さそり座さそり座さそり座さそり座さそり座さそり座さそり座さそり座さそり座さそり座さそり座
 
前回に引き続き、重い内容ですが、
 
30年以上も前から、子どもの学校生活の《イジメ実態》はからかいのレベルを超えてるよ(-_-;)。
 
との思いから、《完全開示》しています。
 
今はSNSが主流だから、もっと巧妙に隠れて行われているのだとしたら……やるせない気持ちになります😥
 
長男のタイ坊も、中学生になってから2回不登校気味になりました。
勉強が大変になったのも1つの要因ではありますが、
他の小学校から入学してきたクラスメートと折り合いがつかず、
 
接点がある度に暴言を吐かれて気持ちの落ち込みが激しくなってしまったと、打ち明けてくれました。
夏休み前後に、それぞれ相手は違うけど、早急に担任の先生と連携を取り対応策を取りました。
 
これは、もう初期段階で手を打たないと。
クラス全てが関係を持ってしまった後は、かなり根深くやっかいになります。
 
自分の経験から言って、親や家族に伝える事はものすごく勇気が要ります。
 
『自分は弱くて情けない人間だ』と、暴露するような気持ちになるから。(決してそんなことは無い(v_v))
 
だから、その気持ちを抑えてまで『助けて』と言えるだけ、すごいんだよ。よく話してくれたね。頑張ったね。
 
と、言いたいです。
 
助けを求めて良いんだよ。頼って良いんだよ。
 
こんな時に、大人が《本気》で立ち向かって子どもを護らなくてどうする?(>_<)ゞ
 
そう、わたしは思います。
 
 
 
 
 
 
前回の《壁新聞》の一件以来、わたしへの本格的なイジメが始まった。
 
まず、不快なあだ名で呼ばれ、他のクラスにまで広まった。
 
『◯◯菌が付く』と言われ、教室や廊下を移動するだけでバリアを張るフリをされる。
 
黒板や机や椅子に悪口を書かれ、げた箱やロッカーにはゴミや雑巾が放り込まれた。
 
そうかと思うと無視をされ、給食の時間や班での活動でも誰もわたしに近づく者はいなかった。
 
屈するつもりはなかったわたしでも、
何度か学級会の議題で先生
『イジメ問題』について取り上げ、
 
結果『公開晒し者(。・・)』状態になり、
 
『イジメは良くないと思うけど、される方にも原因はあると思います!』
 
という正当性を主張したイジメ加害者達に押し切られうやむやのうちに終わる……ということが2~3回続き、
 
チクった』と言われて先生の見てない所で制裁される悪循環にはまりこんだりして……毅然と顔を上げていられる精神状態では無くなっていった(>_<)。
 
 
大きく分けてイジメグループは3つあった。
 
♠1つめは男子リーダーM君(仮名)率いる5~6人。
 
休み時間や主に登下校に待ち伏せして手を出してくる。
持ち物を奪ったり、後ろから背中に背負ってるランドセルを掴んできて『人工衛星だ~!』と言いながら振り回してきて遠心力の勢いで投げ飛ばしたり、
体育の自由時間にプロレス技をかけてきて『実験台』にしたりとかするパターン。
 
♥2つめは女子グループリーダー率いる陰口や無視。
こちらは頭脳派で、
わたしが姿勢を維持する筋力が弱くて、端から見るとだらしない前屈みの姿勢で授業を受けていると
「背骨が曲がっちゃうよ。ダメじゃない(*^^)v」
 
と、言いながら背中をチクチク鉛筆の先でつついてくる。
時折、コンパスの針をちらつかせるのも忘れない。
(これをされると姿勢を維持するのだけで頭がいっぱいになり、授業内容など消し飛んでしまってた)
 
別バージョンでは休み時間や泊まりがけの校外学習などで、『好きな男子』の話題を振り、無理やり言わせようとする。
別にいなかったので『いない』と言っても
『誰でも良いから!』と、固有名詞を言わせようとする。
(これはうかつに名前を出すと、次から相手の男子も巻き込んでの吊し上げや辱めに直結するので……巻き込まない為にも絶対に言えない(*_*))
 
親切でグループに入れてあげてるフリをしながらのパターンで、男子とも連携をとっていた。
 
♦3つめも女子グループで2~3人の少数。
 
このグループとは仲良く遊んでいた時期もあったりしたので、心変わりが悲しかった。
主に休み時間に、トイレや屋上で顔以外を殴られたり蹴られたりで憂さ晴らしをされた。
 
(屋上のゴム製の床にダンゴムシのように身を縮めて耐えながら見上げた青空が、なんだか無性に綺麗すぎて泣けてきた思い出がある(;_;))
 
 
 
(何で、同じ年の子どもに
地面や床に這いつくばされ、無理やり土下座を強要されなければならないのか?)
 
(勉強や運動が出来ない事、
給食を食べきれない事、
流行りのものを持ってない事、
生活習慣や家族構成が変わっている事、
自分の説明をするのが難しい事、
多数決の時にほとんど少数派意見になる事
 
それが、そんなに『罪悪』なのかな?
 
むしろ暴力や暴言を吐き、傷つくのを見て喜んでいる行為をする方が、『罪悪』なんじゃないの?)
 
 
自問自答を毎日繰り返しながら、
 
そんな風に五年生を過ごし、
 
六年生も持ち上がりで何も変わらず担任の先生も継続され、
 
卒業式その日まで、わたしの学校生活はイジメ一色に塗り潰されていったのだった。
 
 
わたしの失敗は、
 
『ジッと我慢をすれば、派手に騒がなければ、大事(おおごと)にしなければ、
 
いつかみんながイジメる事に飽きて、興味を失うと思いこんでいたこと。
 
 
 
四年生の時の経験で
 
 
 
祖母や学校に助けを求めても、無駄だと思っていた。
わたしが悪いと一蹴され、下手すればイジメ加害者の行為をエスカレートさせるだけだと思っていた。
 
担任のT先生は気遣って優しくしてくれたけど、一度『学級崩壊』にまで発展させてしまったクラスの生徒達に対し、『イジメ撲滅』までの強気姿勢を貫く力を維持出来なかった(>_<)
 
 
 
その頃は、家庭でも父の二度目の離婚やらなんやらすったもんだが有り、
 
祖母も、曾祖母が病院に入院したりで付き添い介護が始まったり、
 
飼っていた老犬の内1匹がボケてしまって立てなくなり、オムツを当てての『老犬介護』も始まっていて
 
ぶっちゃけ私生活も戦争状態に突入していた(T^T)
 
このうえイジメ問題を公にしたら、祖母がパニック状態になりわたしへの風当たりも厳しくなるだけだと、感じていたのもある(..;)
 
大人を頼れなかったわたしは、
学校生活を『生きぬく』為に、知恵を絞った。
 
学校でトイレを使用する時は、一番教室から離れた職員室がすぐ近くにあるトイレを使い、
 
登校は、他の子ども達が居ないギリギリ遅刻しない時間帯まで遅らせ、
ホームルームが始まる前まで教室にいる時間を減らした。
 
休み時間は教室に残らず、低学年の教室前(職員室も近く)をブラブラし、
 
帰りは『さようなら』の挨拶が終わったと同時にランドセルを抱えて猛ダッシュで教室を飛び出し、非常階段を通って最速でげた箱から靴を取りかえ、はだしで裏門から学校を脱出していた。
追いかけてくる男子から身を隠し、
家までついてこられて場所を知られないように
 
細心の注意を払って帰宅していた。
 
(おかげでこの時期に《気配を消す》という特技が身につき、未だに無意識に人の背後にいて仰天させてしまうこともある(^-^;))
 
 
今で言う《不登校》の選択肢は無かった。
 
発熱してなければ『ずる休み』はもちろん許されず、当時は『登校拒否』という言葉が初めて出てきたくらいで浸透なんかしていない。
 
子どもの《イジメ問題》も社会問題として大人達の認識もまだまだ甘かった。
 
 
わたしは放課後や土曜日の半休(当時は週休二日制では無かった)を、なるべく家に居たくなくて、
歩いて1分の近所の神社や、近所の東大農学部に行って犬の散歩にきたおじさんやおばさんのグループに混ぜてもらったり、
 
歩いて40分かけて《上野動物園》に遊びに行き、閉園時間まで動物達をぼんやり眺めて過ごしたものだった。
 
自分なりに、無意識に精神安定を図ろうとしていた。
 
義務教育の狭い世界では、学校や家だけが世界の全てだ。その『世界』がわたしにとって、《心が落ち着ける場所》では無かった。
 
毎晩、布団に潜り込んだ後、
思いつくかぎりの神様達の名前を心の中で連呼して、
『明日は、叱られませんように。イジメられませんように』
と祈り続けた。
 
しまいには、
『自分の存在価値はみんなのストレスの捌け口になる事なのかな~。
そうすれば、この世に居ることを、存在を許してもらえるのかな~』
 
と、自己肯定感が地の底まで墜ちてしまい、頭の中が始終モヤがかかった状態になっていってた。
 
 
六年生の冬休みになる頃、初めてマスメディアで《子どもの自殺》が取り上げられた。原因はイジメ。遺書からそれが発覚した。
 
TVの中のコメンテーター達は口々に、『たかが苛められて自殺を選ぶなんて』と言っていたが、それを皮きりにその冬から春にかけて《子どもの自殺》が相次いだ。
 
わたしも首吊り用のロープを家の中で探した事がある。
 
でも、わたしの前に早産で亡くなったという二人の兄の存在を思うと、どうしても自殺を実行する事は出来なかった。
 
この世にだいぶフライングして《未熟児》という形で誕生し、1週間が『山』と言われながらも、わたしを生かそうとしてくれた医師や看護士さん。3ヶ月後に退院する時は奇跡だと送り出してくれたという。
 
右手の手の甲にある点滴液が漏れて残された傷痕を見ながら、
それ以上肉体を自ら傷つける事は出来なかった。
 
『生かしてもらった《命》なら、
兄達の分まで、この世で生きていかなきゃならない……』という想いで、
 
《死》を常に意識しながら、結婚し出産するまで生きてきた。
 
 
子ども達を生み腕の中に抱いたとき、ようやく
 
《この子達を生み出す事が、自分の役目だったんだ》
 
と、ふと思えた。
 
そして、
《子ども達を育む為に、残りの命を使って自分も一緒に成長していくんだ》
 
と、《修行の場》としか感じなかったこの世が、やっと明るく見えたのを感じたのです(*^^*)。
 
 
 
 
 
☆朝日を浴びるトラにゃん🐱
 
 
 
☆あ………タイ坊の靴下に穴が💦😅
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


自閉症スペクトラムランキング


自閉症児育児ランキング


人気ブログランキング