11「影響とその後は大名乱立の下克上に」

この政変で政元は幕政を掌握したが、奉公衆などの軍事的基盤が崩壊し傀儡化した将軍権力は以後、政元をはじめ細川氏の権力により支えられる事となる。

ただし、以後も幕府権力は存続していたとする見方もあり、伊勢貞宗は日野富子の意向で将軍義澄の後見役を務め、度々政元の行動を抑止している。

また、政元の命を受け政変を主導していた政元家臣の京兆家内衆である丹波守護代の上原元秀が急死、京兆家内で政変に消極的な家臣が多数を占めるようになると、京兆家はなるべく幕府の意向を容認、前将軍義材派の巻き返しを用心する方向に切り替えたため、政変後の幕府と京兆家は協調関係に入っていたのではないかとする意見もある。

京都に残留した幕府の官僚組織は、政元ではなく幕府政所頭人で山城守護伊勢貞陸(貞宗の子)が掌握しており、政元との間で駆け引きが繰り広げられることになる。

貞陸は富子の要望で義澄を後見する役目を担っており、義澄や政元の決定も貞陸の奉書作成命令をなくしては十分な有効性を発揮することは出来なかったのである。

これに関連して明応の政変直後に貞陸が義材派の反撃に対抗することを名目に山城国一揆を主導してきた国人層を懐柔して山城の一円支配を目指し、政元も対抗策として同様の措置を採った。

このため、国人層は伊勢派と細川派に分裂してしまい、翌年には山城国一揆は解散に追い込まれる事になった。

畠山氏は政長が自害したことで尾州家が没落、政元に支持された総州家の基家が家督を継承した。基家はすかさず尚順が逃げた紀伊を攻めたが、これは撃退されており、尾州家と総州家の分裂は依然として解消されなかった。

さらに近年では、同年に発生した今川氏親の家臣・伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵攻が、義澄に叛逆した異母兄である堀越公方の足利茶々丸を倒すために、政元や上杉定正と連携して行われたとする見方が有力になっている。

早雲は伊勢貞宗と従兄弟に当たる関係で、彼は京とも緊密に連絡を取り合っていた。

北条 早雲(ほうじょう そううん)こと伊勢 宗瑞(いせ そうずい)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。早雲の代の時はまだ伊勢姓であった。早雲は戦国大名の嚆矢であり、その活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。

 

諱は長らく長氏(ながうじ)または氏茂(うじしげ)、氏盛(うじもり)などと伝えられてきたが、現在では盛時(もりとき)が定説となっている。通称は新九郎(しんくろう)。号は早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)。生年は、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに提唱された康正2年(1456年)説が定説となりつつある。

伊勢姓から改称して北条姓を称したのは早雲の死後、嫡男・氏綱の代からであり、早雲自身は北条早雲と名乗ったことはなく伊勢新九郎や伊勢宗瑞などであったが、一般に北条早雲の名で知られている。なお本項での呼称は、便宜上「北条早雲」で統一する。

出自

一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた。

しかし、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である。

1950年代に発表された藤井論文以降、伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、備中荏原荘(現井原市)で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる)であることがほぼ確定した。

幕府申次衆の書状と駿河国関連の書状を照らし合わせたところ、記載された史料の「伊勢新九郎盛時」なる人物が同一である事も決め手となった[8]。従来の説は文献の解釈の違いによるところが大きく、さらに「備中伊勢氏」説は史料が最も豊富で多岐にわたる事も出自解明に寄与した。

近年の研究で早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになってきている。

早雲は伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれた。決して身分の低い素浪人ではない。

早雲は盛定の所領、備中荏原荘で生まれ、若い頃はここに居住したと考えられる。

荏原荘には文明3年(1471年)付けの「平盛時」[注釈 2]の署名の禁制が残されている(ただし、花押が後のものとは異なる)。

井原市神代町の高越城址には「北条早雲生誕の地」碑が建てられている。備中からは大道寺氏、内藤氏、笠原氏など後北条氏の家臣が出ている。

幕府申次衆・奉公衆

応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、駿河守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を早雲の父盛定が務めている。

その縁で早雲の姉(または妹)の北川殿が義忠と結婚したと考えられる。早雲が素浪人とされていた頃は北川殿は側室であろうとされていたが、備中伊勢氏は今川氏と家格的に遜色なく、近年では正室であると見られている。

文明5年(1473年)に北川殿は嫡男龍王丸(後の今川氏親)を生んだ。

なお、伊勢氏との関係について、寛正6年(1466年)に発生した遠江今川氏の所領没収問題を巡って、貞親の実弟である伊勢貞藤が所領の没収と御料所化推進の中心的存在であり、この処分に反発する今川義忠・伊勢盛定の対立構図が生まれている事が注目される。

また、貞藤は細川勝元と対立して応仁の乱では西軍に属している。かつては、早雲の出自の有力説の1つとされていた貞藤の子とする説(後述)であったが、これらの事実とその後の早雲の経歴を考慮すると、この説が成立しがたい事になる。

京都で早雲は将軍義政の弟の義視に仕えたとされるが、近年有力視される康正2年(1456年)生まれとすると、義視が将軍後継者と擬されていた時期(1464年 - 1467年)には10歳前後で幼すぎ、応仁元年(1467年)以降、義視は西軍に走っている。