10「義材将軍の器にあらず墓穴を掘る」

実際、義材が越前征伐の大号令を掛ければ、諸大名が動員され、朝倉氏が滅ぼされる可能性も十分にあった。

だが、義材が立て続けに2度の出兵を求めたことが、大名らに莫大な戦費や兵糧の負担を強いたことは明らかであった。

例えば、大内氏は六角征伐の際に国許から運び入れた兵糧が1万6千石にも及んだとされる。

河内征伐の次に計画されていた越前征伐もまた、大名らに負担を強いることは目に見えていた。

その結果、大名らに厭戦気分が広まり、そして政元が政変を起こして二者択一の選択肢を迫られると、政長以外は皆義材から離れていったと推測される[46]

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘・日野良子(日野富子の妹)。

初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。

将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。

2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。

文明9年(1477年)、父・義視に伴われて美濃国に亡命した。長享3年(1489年)、早世した従兄で9代将軍の足利義尚と彼に続いて死去した伯父・足利義政の後継者として上洛し、第10代将軍に就任した。

その後、管領・細川政元と対立、明応2年(1493年)将軍職を廃され幽閉されたが(明応の政変)、脱出して越中国、ついで越前国へ逃れ、諸大名の軍事力を動員して京都回復・将軍復職をめざして逃亡生活を送った。

周防国の大内義興の支援を得て、永正5年(1508年)に京都を占領、将軍職に復帰した。

しかし、大内義興が周防国に帰国すると管領・細川高国(政元の養子)と対立、大永元年(1521年)に細川晴元・細川持隆を頼り京都を出奔して将軍職を奪われ、大永3年(1523年)逃亡先の阿波国で死去した。

将軍家相続

文正元年7月30日(1466年9月9日)、足利義視の子として父の近習・種村九郎の邸で生まれる。

翌応仁元年(1467年)1月に応仁の乱が勃発すると、父・義視は兄である将軍・足利義政と対立して9月には東軍より山門に出奔し、ついで西軍に身を投じた。

この時、東軍の武田信賢が義材を護り、西軍に送り届けたという。

文明5年(1473年)に義政の子・足利義尚が9代将軍となり、文明9年(1477年)11月に応仁の乱が終結すると、義視・義材親子は西軍の一角であった美濃国の土岐成頼、斎藤妙椿の庇護のもとに革手に下向し、翌文明10年(1478年)7月に、大御所・義政と義視の和議が正式に成立した後も美濃国に留まり続けた。

義材は長享元年(1487年)1月2日、義尚の猶子として元服し、同年8月には義尚の母・日野富子(義材の母方の伯母でもある)らの推挙で美濃在国のまま従五位下・左馬頭に叙位された。

長享3年(1489年)3月26日、義尚が旧西軍であった近江国の六角高頼征伐(長享・延徳の乱)の在陣中に死去すると、父・義視、土岐成頼、斎藤妙純に伴われて上洛して義尚の葬儀に参列しようとしたが、この時は細川政元の反対でやむなく葬儀が終わった後に入京している。

政元は義尚と義材の従兄弟で堀越公方・足利政知の子・香厳院清晃(天龍寺香厳院を継承し出家していた、後の足利義澄)を将軍後継者候補に推して義材の将軍職継承に反対していたが、義政・富子夫妻が義材を支持したため、義材の将軍就任がほぼ決定した。翌延徳2年(1490年)1月には義政が死去し、義材が10代将軍に就任した。

明応の政変

当初、政治の実権を握り「大御所」と称した父・義視が延徳3年(1491年)1月に死去した後は、前管領・畠山政長と協調して独自の権力の確立を企図する。しかし擁立の功労者であった富子や、もともと清晃支持派である細川政元(一時管領となったがすぐに辞任)とは対立を生じることになった。

同年8月、義尚の遺志を継ぎ、政元の反対を押し切って六角高頼征伐を再開、みずから近江国に出陣して高頼の追放に成功している。

明応2年(1493年)2月には、応仁の乱終結後も分裂状態が続いていた畠山氏で、畠山政長の対抗者・畠山義就が死去したのに乗じて、義就の後継者・義豊を討伐するため、またもや政元の反対を押し切って畠山政長らを率いて河内国に赴いた。

しかし義材が京都を留守にしている間に、京都に残っていた細川政元・日野富子・伊勢貞宗らは同年4月、清晃を11代将軍に擁立して、義材を廃するクーデター(明応の政変)を起こした。

政元のクーデターの最大の原因は、義材が将軍就任時は政務は当時管領だった政元に任せると言いながら、成長すると自ら政務を行おうとしたこと、すなわち将軍と管領のどちらが幕政の主導権を握るかにあったとみられている。

京都では義材派の人々の粛清が行われて市中は騒然となり、自分が任命した将軍の廃立に怒った後土御門天皇は一時は抗議のため退位を表明し、その後も政変をなかなか承認せず、そのため清晃の征夷大将軍宣下は政変から8ヶ月以上経った12月27日に行われた。

この事情のためか、『公卿補任』では、義材から義澄への将軍交代は後土御門天皇の死後に行われたことになっている(もっとも、政元側の献金不足によって朝廷の動きが鈍かっただけとする説もある)。

政元は軍を河内国に派遣して義材と畠山政長を打ち破り、政長は自害した。義材は尊氏以来足利将軍家に伝わる家宝の甲冑「御小袖」と「御剣」だけを携えて政元の家臣・上原元秀の陣に投降し、京都に連れ戻されて龍安寺に幽閉された。

この時、義材が毒を盛られる事件が起き、富子の指示によるものだと噂された。