9「政長の自害と義材の降伏」

しかし、大名らが帰還したとはいえど、義材にはまだ政長の兵8,000がおり、残された軍勢も依然として意気盛んで、徹底抗戦の構えを見せていた。

閏4月3日に武田元信が若狭から上洛して政元に合流し、赤松政則と大内義興が義遐を義材の猶子にして後を継がせる仲介案を出して事態の収拾を図ろうとしているが、これは失敗している。

朝廷の対応

23日、政元はクーデターを朝廷へ報告した。その理由として、自分が義材に河内征伐を反対したのに受け入れられなかったことを掲げ、ゆえに挙兵して義材を廃し、義澄を擁立したのである、と説明した。

一方、朝廷ではこの将軍擁廃立のクーデターを受けて、後土御門天皇が申次白川忠富に命じて、勧修寺教秀・甘露寺親長・三条西実隆という3名の老臣を招集した。天皇は自分の任じた将軍が廃されるという事態に烈火の如く激怒するとともに、勝仁親王も成人したので譲位をしたいと述べた。

これに親長と忠富が反対し、親長は「武家が変転し難題を言ってきても、言いなりになるのが天皇の定めだ。儲君への譲位も武家側に言わせれば良い」と述べたため、天皇も思いとどまった(『親長卿記』明応2年4月23日条)。

その背景には、朝廷に譲位の儀式のため費用がなく、政変を起こした政元にその費用を借りるという自己矛盾に陥る事態を危惧したからとも言われている。

朝廷は翌24日から5日間の阿弥陀経談義を予定通り開催し、天皇も聴聞することを理由に政変に対する判断を先送りし、28日になって細川政元が御訪(必要経費の献金)を行ったことで、清晃改め義遐は従五位下に叙された。

この時、宣下に関わった親長は「御訪を給わざれば相い従うべからず」と述べて、御訪300疋と引換に叙位は行ったものの、政元が将軍宣下に必要な費用までは揃えられなかったためにこちらは見送られた(『親長卿記』明応2年4月28日条)。

当時、朝廷の運営に御訪は不可欠で、政元が掌握した幕府からの御訪なくしては天皇の譲位は実現できない反面、政元といえども御訪が揃えられないと朝廷を動かせなかったという公武関係の実情を伺わせている。

政長の死・義材の降伏

その後、閏4月7日に政元は政長討伐のため、上原元秀、安富元家からなる軍勢を京から河内へと派遣した。

また、基家も高屋城から出撃、政元に与する大名らも味方して、その兵力は4万に上ったという。

上原 元秀(うえはら もとひで)は、室町時代中期から後期にかけての武将。細川京兆家の家宰。

丹波上原氏は元々は信濃国に根拠を持ち、神官として諏訪大社の大祝も務めた諏訪氏の支族で、諏訪敦家の子・五郎敦成が同国上原に移住して上原姓を称したことに始まる[1]

上原敦成の子・上原九郎成政(景正)が建久4年(1193年)丹波国に移住し、何鹿郡物部、並びに西保地頭職を拝領し土着。

またその際に成政は諏訪明神の分霊を祀って氏神とし、領内の各所に諏訪神社を創設し祀らせた。

細川頼之に仕えた上原成基の代には細川家の合議機関である「内衆」に名を連ねるなど台頭を見せた。

度々、書状の上で物部姓を名乗ったが系図の上では関連性が見いだせないでの物部は地名から取られたものと思われる。

急台頭

細川京兆家の内衆の一人、上原賢家の次男として丹波に生まれる。文明14年(1482年)に丹波守護代内藤元貞が罷免されると、父賢家が50年以上に渡って丹波守護代を補任されてきた内藤氏に替わって丹波守護代に任じられる。上原氏の守護代就任はこれが初めての事であった。

上原氏の権力が増す中で元秀も急速に出世し、文明17年(1485年)には父に代わって守護代に就任していたようで波多野清秀へ丹波守護代として書状を発給している。

文明18年(1486年)7月25日の細川政元の管領就任の際には薬師寺元長、安富元家と共に3人で伴衆として随伴。

長享元年(1487年)に行われた六角高頼征伐(長享の乱)では安富元家、父賢家と共に先鋒として近江に出陣し、同年9月に政元が9代将軍足利義尚に拝謁する際にも伴の6人衆の中に賢家・元秀父子は数えられている。

上原氏の出世の背景には豊富な資金力で細川家への積極的な経済支援をした事が挙げられ、延徳元年(1489年)6月10日には政元主催の和歌会を自らの邸宅で開催し、延徳2年(1490年)6月5日での政元邸での観世能の開催にも尽力し、また延徳3年(1491年)の政元の富士一見のための東国への出立費用に2万疋を用立てるなど様々な面で資金援助を惜しまなかった。

他にも政元側近として京の治安維持活動を行なって功が有り、延徳元年(1489年)6月12日には京で「天下夜盗之長」と呼ばれるなど悪名高かった小河四郎左衛門を家臣が討ち取り、延徳2年(1490年)11月24日にも、夜盗を行うなどして京の治安を乱していた悪党9人を、相国寺の東方に討ち入った元秀の家人が討ち取っている[6]

位田の乱

しかし、上原氏の金策の裏側では領国で久我家や鷹司家ら公家の荘園や寺社領から代官を廃して自らを代官と自称し不当に収入を横領したり、在地の旧内藤家臣の地頭職などの中間搾取層の権限を剥奪して自身に権力と金を集中させようとするなど横暴な政策が執られており、上原父子に対する不満が高まっていた。

延徳元年(1489年)には位田晴定、荻野氏 ・大槻氏・須知氏らが現地の牢人らと共に「上原親子への訴訟」と称して謀反を起こし、位田城に立てこもる位田の乱が勃発[8]

この一揆は大規模なもので元秀は鎮圧を父に一任して、更に細川家に応援を要請し、年を跨いだ延徳2年(1490年)7月3日には但馬国、摂津国、備州など13か国から集められた大軍をもって鎮圧を図り、須知氏などを討ち位田城に迫るが、位田城だけは陥落させる事が出来ず逆に攻め手方に数百人の死者が出るなど苦戦を強いられた。

結局、一揆の大部分を叩いたものの短期での完全な鎮圧には至らず軍はそれぞれ国へと戻ってしまう。