6「六角征伐と河内征伐」

義材は前将軍義尚の政策を踏襲し、丹波、山城など、畿内における国一揆に対応するため、延徳3年4月に近江の六角行高討伐の大号令を発し、軍事的強化を図った。

この六角征伐は細川一門をはじめ多くの大名が参加し、圧倒的な武力で行高を甲賀へ、さらに伊勢へと追い払い、成功裡に終わった。

また、政元がこの征伐に反対したことや、征伐中に政元の武将・安富元家が六角軍に大敗したことから、義材は政元への依存を減らすため、以後はほかの大名を頼るようになった。

安富 元家(やすとみ もといえ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。細川京兆家の家宰。

細川京兆家の重臣として讃岐国東方守護代を世襲していた安富氏の惣領である。弟に安富民部丞とも名乗った若槻元隆と真如寺住持を務めた英春がいる。馬部隆弘は元家ら兄弟を安富元綱の子と推定している[2]

元家は文明2年(1470年)頃から安富氏の惣領として讃岐東方守護代を務めていたことが諸史料からわかる。細川政元の家宰として京都で政元に近侍しながら、畿内各地を転戦して数々の武功を挙げた。

延徳3年(1491年)に政元が近江国守護に任じられると、その守護代に任じられ、近江に赴いて実際の政務を担当した。

明応2年(1493年)、明応の政変が起こると、政元の命令により上原元秀と共に正覚寺城において畠山政長を攻め滅ぼしている。

当時、細川政元は修験道に凝って政務を顧みることが少なくなったため、細川京兆家は「内衆」と呼ばれる重臣の合議によって幕政を運営していた。

元家はこの内衆筆頭として政元の政務を代行し、実際の幕政を担当した。

政元の後継者問題では細川澄元を支持している。

後法興院記によれば、元家は永正元年(1504年)、摂津国淀において寺町又三郎と合戦に及び戦死したと伝えられる。

また、永正4年(1507年)8月1日には元家の嫡男で讃岐守護代を継承していた元治も細川氏の内紛で戦死した(宣胤卿記)。

さらに永正8年(1511年)には船岡山合戦で元治亡き後の安富氏を束ねていた元顕も戦死してしまう。

元家に続き、彼の後継者として期待されていた元治・元顕兄弟の相次ぐ戦死により、安富宗家は畿内での影響力を失い、一気に没落する結果となった。

明応2年(1493年)正月、義材は河内の畠山基家(義豊)を討伐するために大号令を発し、再び大名たちへ出兵を要請した。

畠山 義豊(はたけやま よしとよ)は、戦国時代初期の武将、守護大名。河内守護。畠山氏の一派である総州家当主で、畠山義就の次男で修羅の弟、義英の父。

初名は基家(もといえ)、のち父の「義」の字を取って義豊に改名(時期は不明)。通称は次郎、官位は弾正少弼。

兄の修羅が文明15年(1483年)に早逝したため後継者に定められ、文明17年(1485年)に元服、延徳2年12月12日(1491年1月21日)の父の病没で跡を継ぐ。

父の長年の政敵である畠山政長(尾州家)が一時管領を務めるなど、室町幕府の中枢にいたため明応2年(1493年)に10代将軍足利義材と政長を主力とした幕府軍の追討を受けるが、遠征直前の明応元年(1492年)に義材・政長と対立していた管領細川政元と密約を結んでいたため、政元によるクーデター(明応の政変)が勃発し、逆に義材を捕らえ政長を自刃に追い込んだ。

これにより畠山家の家督と河内の守護職を一時的に手に入れたが、政長の子・畠山尚順は紀伊に逃れて反撃の機会を伺い、双方共に小競り合いを繰り返した。

やがて明応6年(1497年)に家臣の遊佐氏と誉田氏が内紛を起こし、これに乗じた尚順が9月に紀伊で挙兵、10月に河内高屋城を尚順に落とされ山城へ逃亡した。

11月には大和国人で与党の越智家栄・家令父子と古市澄胤が尚順に呼応した筒井順賢・十市遠治らに敗れて没落、河内・大和を尚順に奪われ追い詰められていった。

河内を失った後も政元の支持の下尚順と戦ったが、劣勢を覆せず明応8年(1499年)1月30日に河内十七箇所で戦死した。

息子の義英は逃亡、勢いに乗った尚順は近江に進軍した義材及び南山城に駐屯した大和国人衆と呼応して政元を挟み撃ちにしたが、政元の反撃に遭い各個撃破され紀伊へ敗走、義英は河内へ戻れたが、尚順は以後も反乱を起こし総州家と尾州家の対立は継続していった[3]

墓所は現在の大阪府寝屋川市・枚方市の境に築かれたが改葬され、寝屋川市の成田山大阪別院明王院に祀られている。

これは元管領であった畠山政長が敵対する基家の討伐のため、義材に河内への親征を要請したことに起因する。政長は応仁の乱で従兄弟の畠山義就と家督をめぐって激しく争い、義就の死後はその息子の基家と争いを続けるなど、畠山氏は一族・家臣が尾州家と総州家で二分して争っていた。

義材は二分された畠山氏の家督問題を政長優位の下で解決させるため、そして政元への依存を減らすため、政長の願いを聞き入れる形でこの出兵に応じた。

そして、京には義材の命令を受けた大名が多数参陣したが、政元は河内征伐に反対し、この出兵に応じなかった。

政元は先の六角征伐に続いてこの討伐にも反対していたが、それには次のような理由があった。畠山氏は細川氏と同じ管領に就任しうる有力な大名家であるが、その畠山氏が二分され勢力が減退してゆくのは政元ら細川氏にとって好都合であった。

そのため、応仁の乱で政元の父・細川勝元はこの家督争いに介入、尾州家の政長を支持して総州家の義就と争わせることで畠山氏の力を削ごうとした。

だが、義材の河内征伐により、政長のもとで畠山氏が再統一されると、再び強大化した畠山氏が細川氏を脅かす可能性があった。

再統一された畠山氏は同じく畿内に勢力を持つ政元にとって、「新たなる強敵」の出現に他ならなかった。

結局、義材は政元の反対を振り切り、2月15日に討伐軍を京から河内に進発させた。そして、2月24日に義材は河内の正覚寺に入り、ここを本陣とした。

大名らもまた、畠山基家が籠城している高屋城(誉田城)周辺に陣を敷き、城を包囲した。