5「将軍就任するが内紛続きで権威失墜」

義材は父と共に上洛して10代将軍に推挙されるが、伯父の前将軍足利義政や管領細川政元などは、堀越公方・足利政知の子で天龍寺香厳院主となっていた義尚と義材の従兄清晃(足利義澄)を推す。

しかし、日野富子が甥(妹の子)である義材を後援し、翌延徳2年(1490年)正月に義政が死去すると、義視の出家などを条件として義材の10代将軍就任が決定した。富子は義政の御台所、義尚の生母で、将軍家に嫁いで40年近くになり、その間将軍に代わって政務を取り仕切ることもあった。

将軍家を代表するような人物でもあった彼女の支持は義材の将軍就任に大きな意味を持ち[2]、実際に義材の家督継承を朝廷へ報告したのも彼女であった。

日野 富子(ひの とみこ、永享12年(1440年) - 明応5年5月20日(1496年6月30日))は、室町時代後期から戦国時代前期の女性。室町幕府8代将軍・足利義政の正室。

父は蔵人右少弁・日野重政、母は従三位・北小路苗子(北小路禅尼)。兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)。9代将軍・足利義尚の母。従一位。

生誕と結婚

山城国(京都府)の生まれ。室町幕府の足利将軍家と縁戚関係を持っていた日野家の出身で、義政の生母・日野重子は富子の大叔母にあたる。富子も康正元年(1455年)8月27日に16歳で義政の正室となり、長禄3年(1459年)1月9日には第1子が生まれるが、その日のうちに夭折。それを義政の乳母の今参局が呪いを掛けたせいだとし、彼女を琵琶湖沖島に流罪とし(本人は途中で自刃)、義政の側室4人も追放した。

応仁の乱

富子は寛正3年(1462年)と翌4年(1463年)に相次いで女子を産むが、男子を産むことは出来なかった。

寛正5年(1464年)に義政は実弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ、名を足利義視と改めさせ細川勝元を後見に将軍後継者とした。

しかし翌寛正6年(1465年)に富子は義尚を出産、富子は溺愛する義尚の擁立を目論み、義尚の後見である山名宗全や実家である日野家が義視と対立した。これに幕府の実力者である勝元と宗全の対立や斯波氏、畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発した。

富子は戦いの全時期を通じて細川勝元を総大将とする東軍側にいたが、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機も行うなどして一時は現在の価値にして60億円もの資産があったといわれる。

文明3年(1471年)頃には室町亭(京都市上京区)に避難していた後土御門天皇との密通の噂が広まった。

当時後土御門天皇が富子の侍女に手を付けていたことによるものだが、そんな噂が流れるほど義政と富子の間は冷却化していた。

文明5年(1473年)に山名宗全、細川勝元が死去し、義政が隠居して義尚が元服して9代将軍に就任すると、兄の日野勝光が新将軍代となった。

義政は完全に政治への興味を失い、文明7年(1475年)には小河御所(上京区堀川)を建設して1人で移った。

文明8年(1476年)に勝光が没すると、富子が実質的な幕府の指導者となった。

「御台一天御計い」するといわれた富子に八朔の進物を届ける人々の行列は1、2町にも達した。

11月に室町亭が焼失すると義政が住む小河御所へ移る。しかし、文明13年(1481年)になって義政は長谷聖護院の山荘に移ってしまった(その後長らく義政とは別居)。

文明9年(1477年)にようやく西軍の軍は引き上げ、京都における戦乱は終止符を打ったが、この翌日、富子は伝奏・広橋兼顕に「土御門内裏が炎上しなかったのは、西軍の大内政弘と申し合わせていたから」という趣旨の発言をしている。

応仁の乱後

長禄3年(1459年)以降、京都七口には関所が設置され関銭を徴集していた(京都七口関)。

この関所の設置目的は内裏の修復費、諸祭礼の費用であったが、富子はほとんどその資金を懐に入れた。

これに激高した民衆が文明12年(1480年)に徳政一揆を起こして関所を破壊した。

富子は財産を守るために弾圧に乗りだし[4]、一揆後は直ちに関の再設置に取りかかったが、民衆だけでなく公家の怨嗟の的となった。

義尚は成長すると富子を疎んじ始め、文明15年(1483年)には富子をおいて伊勢貞宗邸に移転し酒色に溺れた。

このため富子は一時権力を失った。しかし延徳元年(1489年)に六角高頼討伐(長享・延徳の乱)で遠征中の義尚が25歳で没した。

息子の急死に富子は意気消沈したが、義視と自分の妹の間に生まれた足利義材(後の義稙)を将軍に擁立するよう義政と協議し、同年4月に合意が行われた。延徳2年(1490年)正月に義政が没すると、義材が10代将軍となった。しかし後見人となった義視は権力を持ち続ける富子と争い、富子の邸宅小河邸を破壊し領地を差し押さえた。翌年の義視の死後、親政を開始した義材もまた富子と敵対した。

明応2年(1493年)、義材が河内に出征している間に富子は細川政元と共にクーデターを起こして義材を廃し、義政の甥で堀越公方・足利政知の子・義澄を11代将軍に就けた(明応の政変)。

その3年後、明応5年(1496年)に57歳で死去した。