政変後も義視の扱いに変化はなく、11月に行われた大嘗会では、義政に代わって後奈良天皇に供奉する役を務めている。文化2年(1467年)1月11日には正二位に叙せられている[16]

応仁の乱、亡命

1月18日、畠山氏の家督争いが発端となり、「御霊合戦」が発生した。義視は義政とともに畠山義就を支援するようになり、畠山政長を支援する勝元の面目を失わせた。

2月24日、義視は両軍に和睦を呼びかけているが失敗に終わった。5月26日には細川勝元らの東軍と、山名宗全らの西軍の戦闘が発生した。

義政は畠山義就に軍の撤退を求めているが、「今出川も同意見である」と記している。

義視は義政・富子・義尚らとともに東軍に属し、6月には牙旗を下され主将となった。義視は東軍から山名氏の縁者を追放し、山名方に通じたとして奉行衆飯尾為数を誅殺している。

5月に義政が失脚していた貞親を伊勢から京都に呼び戻したため孤立した。8月22日に西軍の大内政弘が上洛したが、その日の夜と入れ替わるように京都から出奔した。

『応仁別記』には、一時的に今出川殿に赴いていた義視が帰陣しようとしたが、京極持清の家臣多賀高忠に阻まれたと記されている。

同日には東軍内で西軍方と見られたものが勝元によって粛清されている。義視は北畠教具を頼って伊勢へ下向した。

翌応仁2年(1468年)には、西軍と古河公方足利成氏との間で攻守同盟が結ばれているが、伊勢にいた義視はこれを承認している。

9月22日には義政の説得で伊勢から帰洛するが、義兄にあたる日野勝光を激しく非難したほか、義政が9月頃から貞親を起用していたことも、義政との対立に拍車をかけた。

11月13日に室町第を脱走して比叡山延暦寺に出奔、ついで山名宗全の西軍に与した。西軍では擬似幕府(西幕府)が創設されて「公方様」「相公(将軍)」と呼ばれた。

義政は激怒し、朝廷に働きかけ義視や側近の官位を褫奪させた上で、朝敵として追討の対象とさせた。

文明元年(1469年)には四国・九州の諸大名に軍を率いて上京するよう命じている。

文明5年(1473年)、貞親と宗全が相次いで死去した後の4月23日には一条兼良に進退を相談する書状を送っている、文明8年(1476年)9月14日に義政が大内政弘に和睦を求める書状を送ると政弘と共に交渉を開始した。

12月20日に義政に他意のないことを伝える書状を送り、翌文明9年(1477年)5月3日には富子へ政弘を通して和睦の仲介料を支払い、7月に娘を富子のもとに送り、猶子としてもらった。

しかし義政との溝を埋めることは難しく、西軍が解体された11月11日に子の義材を伴って美濃の土岐成頼のもとに亡命した[25]。美濃では承隆寺に滞在していた[26]。翌文明10年(1478年)7月10日に義政に赦免されたが[27]、美濃に留まり続けた。

復権

長享元年(1487年)1月、子の義材を元服させた。8月に義材は従五位下左馬頭に叙位任官されているが、これは義尚に子がなかったことを憂いた富子の意向が強かった。

この頃には義材を義尚の猶子とし、長享・延徳の乱で近江に在陣していた義尚を京都に帰らせて、代わりに義材を近江に置くという案もあったが、実行はされなかった。

長享3年(延徳元年、1489年)3月26日に9代将軍義尚が長享・延徳の乱で遠征先の近江で死去すると、義視は義材と共に4月13日に上洛し、娘のいる京都三条の通玄寺に入った。

富子の住む小川第(義政の別荘)にうつり、富子の支持を受けていることを明らかにした。

4月27日に通玄寺で出家をして道存(どうぞん)と号した。この頃は義政が政務をとっていたが、8月に卒中で倒れ、10月8日には再度倒れた。10月22日に義視・義材父子は乱以来となる義政との対面を果たした。

翌延徳2年(1490年)1月7日に義政は病死した。没後の法事の席で義視は「兄弟の仲は元々良かったが、人の言動で疎遠になった」と語っている。

この席では、美濃にいた義視が、ある僧を出世させるよう要望した所、関係した僧侶たちに反対された。しかし義政が「義視の言うことだから」と押し切ったという話も語られている。

これを聞いた義視はうなずき、一笑したという。

大御所

4月27日、富子が小川第を義材の従兄弟にあたる香厳院清晃(後の足利義澄)に与えることとなった。

さらに富子が細川政元と内談して、清晃を擁立しようとしているというわさがたった。義視は5月18日に小川第を破却させ、富子の所領も奪った。

7月5日、義材は10

代将軍となり、自らは将軍の父(大御所)として政務をとった。また准后の待遇も受けるようになった。

しかし10月7日に妻良子を失ったのに続いて自身も11月に腫物を患い、翌延徳3年(1491年)1月7日に通玄寺で死去した。

享年53。前年に世を去った兄・義政の祥月命日であった。義視の死後、義材は葉室光忠ら側近を重用して独裁的志向を強め、積極的な軍事活動を行ったが、富子や諸大名の反感を買った。

富子と政元は始め幕府関係者や諸大名と連携を取り、義視の死から2年後の明応2年(1493年)、義材の河内遠征中に清晃を擁立して義材を都落ちに追い込んでいった(明応の政変)。