ところが、富子が死去し、義澄も成長すると自ら政務を行おうとして政元と対立、文亀2年(1502年)2月には政元が管領を辞任する意向を示して丹波国(後に山城槇島城)に下って義澄に慰留され、8月には義澄が岩倉の金龍寺(妙善院)に引き籠ってしまった。

復帰を求める政元や伊勢貞宗に対して、義澄は武田元信の相伴衆登用や京都に滞在していた義材の異母弟の実相院義忠の処刑を求め、政元もこれを認めた[注釈 1]

だが、義忠殺害によって政元は義澄に代わる将軍候補を失ったことで義澄を廃することが不可能となり、しばらくは義澄と政元は政治的には対立しつつも協力関係を維持し続けた。

 また、永正元年(1504年)に細川氏家臣である摂津守護代・薬師寺元一が政元によって守護代を更迭されそうになった時には義澄が政元に解任の中止を命じている。

永正4年(1507年)に政元が暗殺され細川氏(京兆家)の家督をめぐる内訌が生じ(永正の錯乱)、翌永正5年(1508年)4月、前将軍・義尹(義材より改名)を擁立する大内義興の軍が上洛してくるとの報により、近江国の六角高頼を頼って朽木谷、さらに蒲生郡水茎岡山城に逃れた。7月、義澄は将軍を廃され、義尹が将軍に返り咲いた。

その後、再び勢力を盛り返そうとして細川澄元、三好之長・長秀父子を京都に侵攻させるなどしたが、その度に細川高国・大内義興・畠山尚順らに敗れた。また、義尹の暗殺を謀ったりもしたが失敗している。

永正7年(1510年)には義尹の命を受けた高国・義興らの近江侵攻を受けるが、近江国人衆を糾合した軍勢でもって勝利した。

さらに豊後国の大友親治や播磨国の赤松義村らに援助を求める御内書を送るなどして、将軍復帰を目指した。

しかし、永正8年8月14日(1511年9月6日)、義尹・高国・義興との決戦(船岡山合戦)直前に水茎岡山城で病死した。

享年32(満30歳没)。

義澄の死から9日後の8月23日に船岡山合戦が勃発、細川澄元・三好之長・赤松義村らが敗れて義尹の将軍職が確定した。両陣営はその後和睦、義澄の2人の息子義晴、義維はそれぞれ赤松義村、細川之持(澄元の兄)に引き取られた。

3「義材の将軍就任と義視の死」

足利義材は、応仁の乱で西軍の盟主に擁立された義視の嫡子である。乱が西軍劣勢で収束すると、父と共に土岐成頼を頼って美濃へ逃れていた。

足利 義視(あしかが よしみ、永享11年閏1月18日(1439年3月3日)- 延徳3年1月7日(1491年2月15日))は、室町時代の武家。室町幕府6代将軍足利義教の子。

異母兄に7代将軍義勝と8代将軍義政、堀越公方となった政知がいる。10代将軍・足利義稙(初め義材・義尹)の父。

義政の後継者永享11年(1439年)1月18日、6代将軍足利義教の十男[4]。母は義教正室の正親町三条尹子に仕えていた女房の小宰相局で、庶子として扱われた。2月22日には尹子の兄である正親町三条実雅の養君となった。

嘉吉3年(1443年)に出家して、天台宗浄土寺門跡の門跡となり、義尋(ぎじん)と号した。

寛正5年(1464年)11月25日に実子がなかった兄・義政に請われて僧侶から還俗することとなった。

当時義尋のほかに義政の兄弟で生存していたのは、義政の兄に当たり、古河公方に対抗させるために還俗していた政知のみであった。

12月2日に正式に還俗して、乳人正親町三条実雅の今出川の屋敷に移り住んだため今出川殿と呼ばれた。

12月2日従五位下左馬頭に叙任された上で義視を名乗った。

翌寛正6年(1465年)1月5日に従四位下に昇叙、2月25日に判始を行った。

3月3日には幕府行事の節句進上において、義視は義政とその御台所日野富子と同じ扱いを受けている。

3月15日には日野重子の旧邸「高倉殿」を「今出川殿」とあらためて移り住んでいる。

7月26日に富子の同母妹良子を正室に迎えたが、これは義政と富子のすすめによるものであった。

11月20日に元服、5日後の25日に参議と左近衛中将に補任され順調に義政の後継者として出世していった。

同年の11月23日に義政と富子の間に甥義尚が誕生し、将軍世嗣とされたが、特に義視の立場に変化はなかった。

『応仁記』一巻本にはこれ以降義政・富子と義視の関係が悪化していったという記述があり、その影響を受けた見解が強かったが、2010年代以降の研究では否定的な見方が強い。当時は子供の生存率も低く、世代に差があるため義視は中継ぎとして見られていたとされている。

11月27日には権中納言を経ずに従三位権大納言に叙せられ、文正元年(1466年)1月6日には従二位となっている。

またこの頃京都では徳政一揆が度々起こっているが、義視は義政と別個に大名への軍事命令を出している。従う大名は殆どなかったが、斯波氏の前当主斯波義廉の家臣朝倉孝景はこれに応じている。

文正の政変

文正元年(1466年)8月25日、義政は斯波義敏を越前国・遠江国・尾張国守護に任じ、斯波義廉を討伐するよう諸大名に命令した。

しかし山名宗全・畠山義就らはこれに反対し、義敏を支援する伊勢貞親らと対立していた。9月5日、貞親は義視が反逆をもくろんでいると訴え、義政に誅殺を求めた。

義視も義廉に近く、義政の乳父であり、「御父」と呼ばれていた貞親の動きはこれに対抗するためのものだった。

義視は宗全の屋敷に逃れ、ついで元管領細川勝元に無実を訴えた[15]。翌6日には貞親が讒訴の罪を問われ、貞親と義敏、季瓊真蘂、赤松政則ら貞親・義敏派が失脚した。義視は真蘂とは以前から交流があり、真蘂が失脚した後も親しく交際している。

『応仁記』一巻本には、政変直前に勝元が義政から義視の後見人に任命され、富子が対抗策として義尚の後見人を宗全に頼み、それぞれの派閥が結成され後の大乱に及んだとする説があるが、近年では否定されている。