澄之と澄元の対立。

結果、澄之・澄元両派の対立が先鋭化するに至る。また、野州家からも高国を養子として迎えていたが、後にこれがさらなる混乱へとつながることになる。

なお高国については養子となった時期が不明であり、実は養子でなく政元死後に澄元との対立のなか自分も養子になったと言い出したという説や最初から実家の野州家を継ぐことを前提とする養子縁組であったとする説(高国の実父の細川政春には他に男子がいなかった)もある。

永正元年(1504年)9月、内衆の摂津守護代・薬師寺元一が謀反を起こすが、これを鎮圧。

永正3年(1506年)7月に河内の畠山義英(義豊の子)と畠山尚順を討伐し、赤沢朝経を大和国へ再び派遣、侵攻させる。

永正4年(1507年)には紀伊国、さらに若狭の武田元信を助けるために丹後の一色義有の城に養子細川澄之・細川澄元を侵攻させるなど、細川氏の勢力の拡大を図った。こうして、政元は細川京兆家の全盛期を築き上げる。

ところが、政元はこのような戦乱を嫌悪したのか、修験者として奥州に行って廻国修行したいと言い出す。

この際には家臣の三好之長らの諫言によって断念する。永正4年(1507年)、武田元信救援のために一色義有を攻めている最中、帰京を命じる勅旨がありそれを受けて5月29日に帰京する。

そして6月23日、澄之派の内衆の香西元長、薬師寺長忠、警護役の竹田孫七によって、湯殿で行水をしていたところを襲われ暗殺された(永正の錯乱)。享年42。

暗殺の理由

政元暗殺に関しては家臣の香西元長が首謀者だったという。

理由に関しては元々嗣子として迎えた澄之であるにも関わらず、細川一族と全く関係無い澄之を後継にすることに一族の反対論が根強く自らも次第に後悔して、庶家の澄元を阿波から嗣子として迎えた。

だがこのために澄之の補佐役だった香西元長の権力が失墜し、澄元の補佐役であり政元にその軍事の才を見込まれ重用されるようにもなった京兆家家臣としては新参者の三好之長の権力が細川家中で増大した。

澄元に従って阿波から来た三好之長は讃岐の政治にも介入しだしたため、讃岐出身である香西元長は憎しみを抱いた。

また主君政元の問題多き性向も将来への不安となり、澄之を擁立して自らが権力を握るために暗殺事件を起こしたという。

また、澄之自身も黒幕として計画に加わっていたとされている。廃嫡・元服直後の永正3年(1506年)には前述の通り、養父・政元の命令に従って丹後の一色義有討伐に赴いて賀悦を攻めたが、命令に従ったのは表向きの行動に過ぎず、敵の一色方と内通して落城を装い、兵を退くという行動を起こしている。

先に澄之が落城を装った賀悦城の石川直経が、政元暗殺を知って京都への撤退を試みた赤沢朝経を首尾よく襲って敗死させるなどしており、事件以前から澄之も通謀し、周到に準備された計画性がうかがえる

。理由は廃嫡されたことに対する恨みが主なものであったと考えられる。

死後

半将軍と呼ばれるほどに力を持った政元が死亡すると細川京兆家は家督をめぐる内紛を重ねて政権体制、領国、家臣団ともに急速に力を失っていくことになる。政元暗殺後の後継者について、まず細川家の血を引かない澄之の排除に関しては一族で一致をみることができたが、澄之敗死後の澄元(後にはその子の晴元)・高国両派の対立は、幕府将軍の義澄・義稙両派の争いとも絡んで、20年以上の長きに渡り細川家を二分し畿内に争乱をもたらすものとなった(両細川の乱)。

また政元をもって京兆家嫡流である細川頼元の血筋は絶え、頼元の弟である細川満之・細川詮春の子孫が細川家家督の地位を争うこととなる。。

 

足利 義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府第11代将軍。在任:明応3年12月27日(1495年1月23日) - 永正5年4月16日(1508年5月15日)。

父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄。正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。

明応2年(1493年)に従兄の10代将軍・足利義材(義稙)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。

しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。

文明12年12月15日(1481年1月15日)、堀越公方・足利政知の子として生まれる。当時、政知の嫡男で異母兄の茶々丸が堀越公方の後継者としていたために、文明17年12月(1486年1月)、叔父義政の意向で天龍寺香厳院の後継者に定められ、文明19年(1487年)6月、上洛して香厳院を継承、出家して法名を清晃と名乗る。

長享3年(1489年)3月、従弟の9代将軍・足利義尚が死去して義政が後継者を失い、翌年に義政も死去して室町幕府の将軍の座が空位となると、清晃も後継者候補の1人に挙げられたが、この時は義政の未亡人・日野富子の推挙で従兄で叔父・足利義視の子である足利義材(のちの義尹)が10代将軍に迎えられた。富子は清晃には自分が義尚と暮らしていた小川殿を譲ることにする。

延徳2年(1490年)4月27日にこの意向が示されると、義材の父である義視は富子が清晃を次期将軍に立てる準備と疑い、翌月に小川殿を破却してしまった。

これをきっかけに義材と富子との関係は悪化してゆくことになる。

その後、清晃は明応2年(1493年)4月の明応の政変で義材を追放した管領・細川政元や日野富子、伊勢貞宗らによって擁立され、故義政の猶子とされて11代将軍に就任する。

しかし、実権は政元や富子、貞宗らに握られていた。明応3年(1494年)12月27日の卯刻、将軍宣下に先立って元服の儀が行われるが、一連の儀式は足利義政の先例に従って行われたが、会場は当時義澄の居住していた細川政元の邸宅、加冠が政元・理髪が尚経・打乱が政賢・泔坏が尚春と、元服の諸役が全て細川氏一門が占め、烏帽子を被せる政元が儀式で(政元本人が)烏帽子を被るのを嫌って当初予定の20日から延期されて列席予定者から政元が非難される など、政元の独擅場であった。

また、政所執事の役についても義政の元服の儀の際に先例とされた足利義満の元服時の先例が持ち出されて伊勢氏ではなく二階堂氏が務めるべきとして、伊勢貞陸は1日限定で二階堂尚行に執事の地位を譲っている。