2「明応の政変の起因」(めいおうのせいへん)は、室町時代の明応2年(1493年)4月に細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件。

この政変により、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。なお、近年の日本史学界においては戦国時代の始期をこの事件に求める説がある。

細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、室町幕府守護大名であり、第24、26、27、28代管領。細川氏の第12代当主。

摂津・丹波・土佐・讃岐守護。足利将軍家の在職将軍10代義材を追放して11代義澄を擁立し、政権を掌握。事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ばれた。

室町幕府の三管領(足利一門の斯波、畠山、細川)である細川氏本家・京兆家の生まれ。父は応仁の乱時に東軍を率いた細川勝元。母は勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)とされるが、根拠となる史料は無い。

修験道に没頭して女性を近づけず独身を貫いたため実子はおらず、政元をもって細川家の嫡流は途絶え、養子に澄之、澄元、高国がいる。

将軍を挿げ替え(明応の政変)、管領として幕政を牛耳り(京兆専制)、比叡山焼き討ちを行ったり畿内周辺にも出兵するなど、細川京兆家の全盛期を築き当時日本での最大勢力に広げたが、3人の養子を迎えたことで家督争いが生じ、自らもその争いに巻き込まれる形で家臣に暗殺された(永正の乱)。

応仁の乱の混乱以来、実力者政元の登場によって小康状態にあった京・畿内周辺は、その死と澄元・高国両派の争いによって再び長期混迷していくこととなる。

文正元年(1466年)、室町幕府管領として強い力を持っていた細川勝元の嫡男として生まれる。

文明5年(1473年)5月、応仁の乱の最中に病死した勝元の後継として、わずか8歳で家督を相続。丹波・摂津・土佐守護に就任する。

幼少のため、分家の典厩家当主細川政国の補佐を受けた。

文明6年(1474年)4月3日、西軍方の山名政豊と和睦し、応仁の乱は終

息する。

文明10年(1478年)7月に13歳で元服し、8代将軍・足利義政の偏諱を受けて政元と名乗る。

管領に任じられたものの、9代将軍・足利義尚の任大将拝賀の儀礼が終わると短期間(9日間)で辞職している。ところが、文明11年(1479年)12月に丹波国内における細川氏の家臣同士の争いが原因で一宮宮内大輔一族に拉致され、翌年3月まで丹波国に幽閉されている。

文明14年(1482年)には摂津の国人が蜂起、畠山義就討伐に向かう管領・畠山政長と協力して連合を組んだが、摂津国人を討伐した後は義就が占領した摂津欠郡(東成郡・西成郡・住吉郡)の返還と引き換えに河内十七箇所を義就に渡し、単独で和睦して京都に撤退した。

長享元年(1487年)、9代将軍・足利義尚は六角高頼(行高)討伐を決意するが、それを事前に知らされていたのは政元のみで、両者は極秘のうちに出陣の準備を進めていたと伝えられている。

また、この年の長享改元の際に行われた幕府の吉書始の儀式のために1日だけ管領に就任している(2度目:長享元年8月9日)。

だが、2年後の延徳元年(1489年)、将軍・義煕(義尚の改名後の名)は六角討伐(長享・延徳の乱)の最中、近江国で病死する。

政元は次期将軍として義煕の従兄で堀越公方・足利政知の子で禅僧となっていた天竜寺香厳院の清晃(のちの足利義澄)を推挙するが、義煕の母・日野富子と畠山政長の後押しの結果、義煕の従弟で足利義視の息子・義材(後に義尹、更に義稙と改名)が10代将軍に就任する。

この結果に不満であった政元は、延徳2年(1490年)7月5日に義材の就任儀式(判始)のために1日だけ管領を務めるが、やがて幕府に距離を置き始める。

義材の将軍就任は、幕府内で足利義視と畠山政長の権勢が高まることとなり、延徳3年(1491年)1月に義視が死去した後は政長が幕府の権力を独占するようになる。

直後の延徳3年2月13日に九条政基の末子(聡明丸と名乗る、のちの細川澄之)を猶子に迎えた。

澄之を養子に迎えた意図として、妻帯していない(するつもりのない)政元には実子はもちろん弟もいないため後継者を得ておく必要性と、澄之は清晃の母方の従兄弟に当たるため足利政知との連携を深める狙いがあったとされる。

更に直後の3月、政元は東国旅行へ出かけ、越後国を訪問、守護・上杉房定と会見した。

奥州へ向かう予定だったが、将軍義材から六角高頼討伐の出陣命令が届いたため断念、4月に帰京した。

この旅の背景は堀越公方足利政知と連携する意向で房定を取り込む意図があり、政知との会見も計画していたが、政知が亡くなったため帰京した。

政元は、丹波で位田氏・荻野氏・大槻氏・須知氏らが起こしている国人一揆の鎮圧が上手くいっていないこともあり、この時の出兵には反対で、義材を諌めようとしたものの無視されている。この時から政変を計画していたとされる。