よって、貿易総量に変化はなかったことがわかり、一般に言われているような積極的な貿易政策による輸出増加政策などしていないことがわかる。藤田覚は田沼時代の積極的な貿易政策というこれまでの評価は再考を求められているとしている。

通貨政策

財政支出補填のための五匁銀・南鐐二朱銀、寛永通宝四文黄銅銭といった新貨の鋳造を行った。南鐐二朱銀に関しては法定比価で金一両分だと元文銀104gに対し南鐐二朱銀八枚79gと設定したので元文銀を材料に南鐐二朱銀を鋳造すれば通貨発行益が発生することになる。

寛永通宝四文黄銅銭は一文青銅銭に比べ額面上の額は4倍だが銅の量は1.3倍でしかなく、これもまた発行すれば通貨発行益が発生した。

財政補填の為に発行された南鐐二朱銀だが、その発行に関しては通貨発行益以外にも歴史的な意義がある。金貨単位の計数銀貨の誕生によって通貨単位が金貨への統合を促された点である。藩札などは依然銀単位の発行が多く、本格的な統合は明治に入ってからになるが、これはその萌芽といえる。

これらは時代に先駆ける政策であったが、それに反し時代に逆行する政策もしている。紙幣発行については吉宗の時代には紙幣の通用が解禁されていたが、それを逆行させ1759年に金札・銭札の通用を禁止し、また銀札も新規発行を禁止した。しかし、その法令に反し、それらの法令を無視して藩札・私札は発行され続けた。

 

 

 

12「蝦夷地開発

田沼は、蝦夷地を調べるために幕府の探検隊を作った。メンバーには、青島俊蔵、最上徳内、大石逸平、庵原弥六などがいた。また、蝦夷地の調査開発をすすめる事務方には、勘定奉行松本秀持、勘定組頭土山宗次郎などがいた。そして、幕府の潤沢な財政を蝦夷地開発に注ぎ込んだが、成果は無く費用のみ嵩んだ。

田沼失脚後、松平定信は、田沼の政策である蝦夷地開発を中止し責任者を厳罰にしたが、その頃、蝦夷地近海に頻繁に現われるロシア艦船に不安を感じ、蝦夷地の天領化、北方警備に幕府として取り組み始めた。

上知令

利益の大きい産業のある藩領を幕府領に編入するべく上地を命じようとした。

秋田藩領 阿仁銅山

宝暦14年(1764年)貿易用の銅の直接確保のために5月に上知令を出したが、秋田藩の反発が激しく翌月撤回。

尼崎藩領 兵庫・西宮

明和6年(1769年) 灯油の原料である菜種の生産地域1万4千石の村と都市を代替地と引き換えで上地を命じた。

蝦夷地

松前藩から蝦夷地そのものを上地しようとしたが田沼失脚とともに頓挫した。

相良藩の藩政

田沼意次は御側御用取次であった宝暦8年(1758年)に第9代将軍家重から呉服橋御門内に屋敷を与えられるとともに、相良1万石の大名となった。この時の相良は郡上一揆で改易となった本多忠央が前領主であったが、城はなく陣屋のみあった。

明和4年(1767年)には第10代将軍家治より神田橋御門内に屋敷を与えられ(この時から「神田橋様」と呼ばれることとなった)、さらに築城を許可されて城主格となった。翌年から相良城の建設を始め、完成までに11年間の月日を要した。意次は普請工事を家老の井上伊織に全て委ね、1780年(安永9年)の完成に合わせて62歳になった意次は検分の名目でお国入りを果たした。

特に天守を築くことを許されており、縄張りを北条流軍学者の須藤治郎兵衛に任せ、三重櫓の天守閣を築いた。出世を重ねた意次の所領は最終的に5万7,000石にまで加増された。

意次は江戸定府で幕政の執務に勤めていたため、国元の藩政については町方と村方の統治を明確化し、城代・国家老などの藩政担当家臣を国元に配置した。上記の築城の他、城下町の改造、後に田沼街道(相良街道)と呼ばれる東海道藤枝宿から相良に至る分岐路の街道整備、相良港の整備、助成金を出して瓦焼きを奨励して火事対策とするなどのインフラに力を注いだ。意次は郡上一揆の調査と裁定を行った経歴から、年貢増徴政策だけでは経済が行き詰まることを知っていたので、家訓で年貢増徴を戒めており、領内の年貢が軽いことから百姓が喜んだ逸話が残された。

殖産興業政策にも取り組み、農業では養蚕や櫨栽培の奨励、製塩業の助成、食糧の備蓄制度も整備して藩政を安定させた。

田沼時代の財政

田沼意次の財政政策は世間の通説では積極財政だと言われている。だが藤田覚などの歴史学者の中には田沼意次の政策を緊縮財政であったとするものもいる。

天明7年老中となった松平定信に提出された植崎九八郎上書の中には、田沼意次の政治をこう批判している

”諸役人は、幕府の支出を一銭でも減らすことを第一の勤めとしてお互いに競い合い、幕府の利益だととなえて、重い租税を取り立てることを将軍への奉公と考え、おのおのの 持ち場で、一方で費用を切りつめて支出を減らし、他方で租税の取り立てを厳しくし、その手柄により転任し出世していった。”

実際、上で語られている通り、田沼の政策は増税と経費削減の二枚看板で進められた緊縮財政であった。

財政削減政策

諸経費削減

田沼は吉宗時代に倣った経費削減を行った。大奥の縮小、将軍の私生活を賄う御納戸金の額を1750年には2万4600両だったものから1771年に1万5000両に削減した。1746年に幕府諸役所経費の二年間節減を命じ、1755年に役所別定額予算制度を採用、1764年には、役所で使う筆墨、燈油などの現物支給を停止し、役所経費での購入に変更するなど、経費削減に取り組んだ。