10「田沼意次の人脈」

田沼意次は幕府内での権力を維持するために表、中奥、大奥の全てに婚姻関係による人脈を作り権力の基盤を築いていた。特に、父の代から田沼に重用されていた奥医師の千賀道有の養女は田沼の側室にあがっており、徳川家基の生母お知保の方は千賀家の縁戚であった。その繋がりを通じてお知保の方や大奥の奥女中たちに贈物を届け大奥を味方につけたとされる。一方で親類縁者を使った政権の基盤固めを行っている。

長男の意知は通常は大名の当主しか就任できない奏者番に天明元年(1781年)就任し、天明3年(1783)には若年寄に就任するなど異例の出世を果した。

さらに、次男の意正は老中の水野忠友の養子に入り、長女は奏者番の西尾忠移にが嫁ぎ、次女は若年寄の井伊直朗に嫁いだ。意知の岳父は老中の松平康福である。このように意次の兄弟、子、孫、甥、姪はかなりの数の大名家に嫁ぎ繋がりを持ち、ついには老中は西ノ丸老中の鳥居忠意を除けば全て田沼の親類で固められるに至った。

また江戸の両奉行や勘定奉行なども田沼家の家臣の娘と婚姻を結んでおり、田沼政権は田沼家を頂点とした親類縁者の集まりであった。その強すぎる権勢は他大名家や旗本からの反発を招いた。

それにととまらず、意次は次代への権力の維持に力を注いだ。田沼家は一橋家に大きな繋がりを持っていた。

意次の妻は一橋家の家老の娘であり、弟の田沼意誠は一橋家の家老に就任し、意誠の息子は後に家斉の御用取次に昇進した。そのため意次は将軍家治の養子選定の際に一橋家に大きな「恩」を売ったのではないかといわれている。

仙台藩医の工藤平助は、迫りくる北方の大国ロシアの脅威に備えるため「赤蝦夷風説考」を天明3年(1783年)、当時の幕府老中、田沼意次に献上した。これが田沼の蝦夷地開発の原点になったといわれる。田沼は、蝦夷地調査団に、まず、経世家の本多利明を招聘しようとしたが、辞退されてしまう。代わりに本多から推薦されたのが最上徳内であった。

発明家として有名だった平賀源内のことを田沼は大変気に入っていたといわれる。田沼は平賀をオランダ商人のいる出島に遊学させたこともあった。ところが、平賀源内が殺人事件を起こしたため、田沼は彼とのつながりを全面的に否定せざるをえなかった。もし平賀が殺人事件を起こしていなければ、田沼は蝦夷地開発の責任者を平賀にやらせただろう、とも言われている。

ただし平賀は自身の思った通りのこと(遊学・江戸行など)を行うため、自家の隠居願と引き換えに高松藩より奉公構の扱いとなっていたため、そのあたりについては、はなはだ未知数な推測である部分は否めない。

政策

貨幣経済を振興しようと思ったきっかけは、徳川吉宗による政治にあった。吉宗時代の質素倹約は、幕府の財政支出の減少のみならず、課税対象である農民にも倹約を強制し、税を搾り取ろうとするものであった。

それによって幕府財政は大幅な改善を見たが、この増税路線は9代将軍家重の代には百姓一揆の増発となって現れ、破綻するのである。そして、天領における一揆ではないものの、意次は郡上一揆の裁定を任されたことから、農民に対する増税路線の問題を目の当たりにする立場であった。また、米相場の乱高下に頭を悩ます吉宗を身近で見て、田沼は日本に貨幣経済を普及させて問題を解決できないか、と考えたという。

田沼の経済政策は、商人に対する課税によって幕府の財政を健全化させる目的があったとされている。田沼時代の特徴の一つとして、幕府財政を健全化させることを目的として吉宗時代の米中心の税収に加え、新たに商業の面から収入の増加策に積極的に取り組んだことが挙げられる。

だが、その収入増加策の立案、運用が実のところ場当たり的なものが多く、利益よりも弊害の方が目立つようになって撤回に追い込まれるケースも多発していた。そして幕府に運上金、冥加金の上納を餌に自らの利益をもくろんで献策を行う町人が増え、結果的に幕府も庶民も得にならなかった政策を採用することもあった。

そのような町人の献策を幕府内での出世を目当てに採用していく幕府役人が現れた。町人と幕府役人との癒着も目立つようになった。このような風潮は「山師、運上」という言葉で語られ、利益追求型で場当たり的な面が多く、腐敗も目立ってきた田沼意次の政策に対する批判が強まっていた。

そのようなマイナス面を見て、彼の行った諸政策を「金権政治」の一言で切り捨てる向きもある。また商人に様々な特権を与えた為に農産物の買い叩きや都市部への過度の集積を招き、その失政は天候不順に因る凶作の被害を甚大な物へと拡大させ大飢饉を引き起こし数年間で約100万人が死亡した。

 

11「株仲間の推奨

同業者組合である株仲間を奨励、真鍮座などの組織を結成させ、商人に専売制などの特権を与えて保護、運上金、冥加金を税として徴収した。だがしかし、この冥加金などの上納は基本的にどれも少額であるため幕府の財政収支に与えた影響はあまり大きかったとは考え難く、中井信彦氏などは冥加金は少額な為、財政上の意義は不明として冥加金の財政収入増加説に否定的である。

このように歴史学者の間でも田沼時代の幕府の意図をめぐっては、冥加金を上納させることによる財政収入増加策なのか、あるいは株仲間による流通統制、物価安定策だったのかと評価が分かれている。

長崎会所の健全化

長崎貿易を担っていた長崎会所は享保8年(1723年)にはその運上を5万両に定められていた。だが享保18年には3万5000両に減額し、寛保2年(1742年)にはとうとう廃止、以降は借金がかさみ延享3年(1746年)には拝借金21万両にまで膨れ上がった。

そのため、勘定所は寛延元年(1748年)から22年間勘定奉行が長崎奉行を兼任することで管理統制を強め、最終的には借金返済、運上金もかつての5万両の3分の1以下だが1万5000両を上納させることに成功した。長崎貿易は俵物の増産が目指され、銀も輸出から輸入へと切り替わった。

なお、一般には田沼意次の積極的な貿易政策で輸出を増やしたといわれているが、鈴木康子の著書「長崎奉行の研究」によると、海舶互市新例で定められた貿易総量を超えて貿易を始めたわけでも、銀を輸入する見返りに銅の輸出量を増加させたわけでもない。