田沼意次の人物像

田沼は失脚前から既に悪評が出ており、田沼の賄賂政治を皮肉って以下の狂歌が歌われた。

この上は なほ田沼るる 度毎に めった取りこむ 主殿家来も

これは、田沼も家来もやたらと賄賂を取り立てることを皮肉った歌である。当時、田沼邸には猟官運動をする大名や直参旗本,幕府からの受注を願う商人達が朝から列をなしていたといわれている。

しかし、贈収賄は江戸時代通じての問題で、それ自体も近代以後に比べればかえって少なかったという説も唱えられている[要出典]。なお、田沼の没後松平定信によって私財のほとんどを没収されたが、そのときには「塵一つでない」といわれるほど財産がなかったとの逸話もある。

大石慎三郎は「賄賂政治家」という悪評は反対派によって政治的に作られていったとしている。これらの説によると、田沼悪人説の根拠となる史料も田沼失脚後に政敵たちにより口述されたものとしている。また、仙台藩主伊達重村からの賄賂を田沼が拒絶したと主張し、逆に田沼を非難していた松平定信さえも田沼にいやいや金品を贈ったと書き残していることなどをその論拠として主張している。ただし、大石はだからと言って意次が清廉潔白な政治家だったとは断定できないともいっている。

藤田覚は田沼が伊達重村の中将昇任への口利きをし、二年後に中将昇任を実現させたとしている。その後、将軍からの拝領物などの件でも請願をうけ、実現のために働いている。さらに、官位だけでなく秋田藩は拝借金や阿仁銅山上知撤回のために田沼に工作しており、薩摩藩も拝借金の件で同様に田沼に工作していたと主張している。

なお、日本大百科全書(ニッポニカ)の田沼時代の解説には「諸人の激しく非難する賄賂(わいろ)も当時の習慣だったとはいえ、とくに田沼の全盛期である天明年間には賄賂公行の政治となったのも事実で、失脚後の悪評とばかりはいえない。」と書かれている。

このように田沼が受け取った賄賂は現代のお歳暮やお中元のような慣習上のものであり、賄賂ではないとする説もある。

だが当時、田沼の賄賂政治を批判した松平定信が行った寛政の改革の諸役人への贈り物を規制する触書ではあまりに高価な品を送ることを戒めてはいるが、新年、中元、歳暮などの儀礼的な年中恒例の贈答などを禁止などしているわけではなく、むしろ一年に何度も及ぶ恒例の進物は当然のこととされた。それどころか、幕府役人への進物は大名らへの当然の義務であった。

寛政4年の触書では”近年、年中恒例の進物の数を減らしたり、質を落としたり、なかには贈らない者もいる”と非難している。さらに、側衆や表向き役人への進物は、大名と役人の私的な贈答ではなく、将軍の政務を担う役人への公的な性格のものだからきちんと贈るようにとも命じている。 寛政の改革で取り締まったのは、あくまで儀礼的な域を超えた猟官などのために行った賄賂である。

田沼失脚後に老中となった松平定信ら譜代・親藩による寛政の改革が始まり、意次の政策は否定される。11代将軍徳川家斉の大御所時代には、水野忠友の子水野忠成と、田沼意次の四男田沼意正らによる大御所家斉の浪費から生じた重商主義的な経済状況が生まれ、家斉の浪費によって市場の経済の状況は上向いたが賄賂政治が横行し、幕府財政の破綻、幕政の腐敗を招いた。

寛政の改革(かんせいのかいかく)は、江戸時代中期、松平定信が老中在任期間中の1787年から1793年に主導して行われた幕政改革である。享保の改革、天保の改革とあわせて三大改革と並称される。

浅間山噴火から東北地方を中心とした天明の大飢饉などで一揆や打ちこわしが続発し、その他にも役人の賄賂などがあったため、前任者の田沼意次は失脚する。松平定信は8代将軍徳川吉宗の孫にあたる(父は吉宗の次男・田安宗武、第9代将軍徳川家重の弟)。定信は白河藩主として飢饉対策に成功した経験を買われて幕府老中となり、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座となる。

定信は主に農政や福祉に重点を置いた政策を行ない農業人口の増加と荒れ地の復旧に努めた。農具代・種籾代の恩貸令、その返済猶予令、他国出稼制限令、旧里帰農奨励令など、荒廃した農村の復興を図った。

飢饉対策として、各地に籾蔵を設け、さらに年貢徴収役人である代官の不正を厳しく取り締まった。

また、江戸では、改革直前の1787年5月に、数日間にわたる打毀騒動があったことから、その再発防止のための都市政策のせいびが緊要の課題であったため、無宿者を収容する石川島人足寄場の設置や、窮民救済のための七分積金令と町会所の設置など、貧民蜂起の予防策を実施した。

このうち、石川島人足寄場や町会所、あるいは勘定所御用達の制度などは、幕末期まで存続している例が多く、これらは江戸時代における福祉制度の充実という点で大きな成果といえる。

さらに、江戸へ流入した農民で故郷へ帰農を願い出た者には、旅費や農具代を与えるという旧里帰農奨励令を発布し、打毀の主体となる都市貧民を少なくし、あわせて農村人口を増加させようという、一石二鳥の政策を試みた。

流通市場の統制にもみるべきものがあり、物価の引下げや米価の調節に熱心に取り組み、また上方経済圏に対し関東経済圏の相対的地位の引上げに努め、江戸の豪商10名を勘定所御用達に登用したり、上方からの下り酒に対抗して、関東上酒の試造を豪農に命じたりなどと、「江戸地廻り経済」の活性化と技術成長を促し「上方一強」の打破を目指した。

金融市場の統制も積極的であった。公金の低利貸付を盛んに行い、民間金融市場の利子率の引下げを促した。

また、旗本・御家人の困窮財政を救うため、札差棄捐令を発したのは有名であるが、金融業者札差の受けた損害は実に118万両余にも上った。このほか情報・思想統制にも力を入れ、出版の取締りを強化するとともに、異学の禁を出して、朱子学のいっそうの振興を図った。なお異学の禁は、幕府に忠実な封建官僚育成の意図をも有していた。

このような徹底した統制政策や行政改革の実施し、田沼時代から継承した商業政策、緊縮政策の継続もあり、定信就任当時、天明の大飢饉の損害と将軍家治の葬儀の為に幕府財政は100万両の赤字が予想されていた状況から黒字に転じることに成功する。定信失脚の頃には備蓄金に20万両の貯蓄が確保された。