8「意次の凋落と最期」

天明6年(1786年)8月25日、将軍家治が死去した。死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に失脚するが、この動きには反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされる。

8月27日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格した。閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられた。

その後、意次は蟄居を命じられ、2度目の減封を受ける。相良城は打ち壊し、城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰された。長男の意知はすでに暗殺され、他の3人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助が陸奥1万石に減転封のうえで辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保や間部詮房が、辞任のみで処罰はなく、家禄も維持し続けたことに比べると、最も苛烈な末路となった。

その2年後にあたる天明8年(1788年)6月24日、江戸で死去した。享年70。

一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつ。単に一橋家ともいう。

江戸幕府8代将軍吉宗の四男宗尹を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有した。

家格は徳川御三家に次ぎ、石高は10万石。家名の由来となった屋敷、一橋邸は江戸城一橋門内、現在の千代田区大手町1丁目4番地付近にあった。なお、一橋家は独立した別個の「家」ではなく、「将軍家(徳川宗家)の家族」として認識されていた。

宗尹は、元文2年(1737年)に賄料を現米2万俵に改められ、同5年(1740年)に一橋門内に宅地および賄料1万俵を加増され、一橋家を興した。

延享3年(1746年)、新規に賄料領知10万石を武蔵・下野・下総・甲斐・和泉・播磨・備中7か国のうちに与えられ、高10万石となる。ただし、領分は時期によって異動があり、幕末期には、武蔵・下野・下総・越後・摂津・和泉・播磨・備中の8か国22郡に散在していた。

一橋家は御三卿の中で唯一将軍を出しており、第11代将軍家斉と第15代将軍慶喜が一橋家の出身である。さらに、治済と家斉が数多くの子をなす一方、田安徳川家第2代の治察が早世し、清水徳川家初代の重好が実子を残さなかった結果、18世紀末以降のほとんどの将軍と御三卿当主が一橋家の宗尹の子孫で占められ、外様の大藩、福岡藩黒田家などにも一橋徳川家の血が入ることとなる。

しかし、一橋家当主自身は短命で子を残せない者が多かった。結果、幕末期には数多くの親藩が一橋家の血筋で占められる一方、御三卿で宗尹の子孫は田安家のみとなった。

第8代当主の昌丸は尾張徳川家からの養子とはいえ、父は将軍家斉の子であったが、昌丸の夭逝後には一橋家の血筋ではない水戸徳川家から慶喜が養子に入った。上述の通り慶喜が将軍になると、尾張藩の元藩主である茂栄(血筋では水戸家に連なる)が代わって当主に就くという変則的なことが行われた。

他方、大政奉還後に徳川宗家を相続した家達は宗尹の男系子孫でありながら田安家出身であり、当の一橋家の当主が他家の血筋で、一橋家の血筋の田安家当主が徳川宗家を継ぐということになった。

明治元年(1868年)、徳川宗家から独立して維新立藩した(一橋藩)。しかし明治2年(1869年)に版籍奉還するも知藩事に任命されずに、廃藩となる。同3年(1870年)閏10月に家禄3805石を支給され、同17年(1884年)7月には華族令により華族に列して伯爵を授けられた。12代当主宗敬は戦後、最後の貴族院副議長を務め、サンフランシスコ講和条約の日本側全権委員のひとりであった。

伺候席(しこうせき)とは、江戸城に登城した大名や旗本が、将軍に拝謁する順番を待っていた控席のこと。殿席、詰所とも。

伺候席は拝謁者の家格、官位、役職等により分けられており、大名家にとってその家格を表すものとして重視されていた。

大名が詰める席には大廊下席、大広間席、溜詰、帝鑑間席、柳間席、雁間詰、菊間広縁詰の七つがあり、それぞれに詰める大名は出自や官位を元に幕府により定められていた。

ただし、役職に就任した場合は、その役職に対して定められた席(奏者番ならば芙蓉間、大番頭なら菊間等)に詰めた。

将軍の執務・生活空間である「奥」から最も近いのは「溜間」次いで「雁間」「菊間広縁」「帝鑑間」と主に譜代大名が詰める席となっており、官位や石高では大廊下や大広間の親藩・外様大名の方が上だが、将軍との親疎では遠ざけられていた。

大広間席、帝鑑間席、柳間席の大名は「表大名」といわれ、五節句や月次のみ登城した。

それぞれの伺候席に詰めた大名家は以下の通り。

大廊下席

大廊下席(おおろうか)は、将軍家の親族が詰めた部屋。上之部屋と下之部屋の二つに仕切られていた。

上之部屋は御三家が詰めた。江戸初期は、三代将軍家光の血筋である御両典(甲府藩、館林藩)も詰めた。中期以降、八代将軍吉宗によって新設された御三卿の当主も詰めるようになった。

一橋徳川家の縁戚となった福岡藩黒田家当主も同じく詰めた。 また、家光の正室本理院孝子の弟鷹司信平が大名に取り立てられ、松平姓を許され、上野吉井に一万石を給されたが、この鷹司松平家も上之部屋に詰めた。

下之部屋は加賀藩前田家が詰めていた。また、初期には、福井藩松平家、足利氏(古河公方家)の末裔である喜連川氏の当主もここに詰めていた(後に福井藩松平家は大広間、喜連川氏は柳間に下がる)。

江戸後期になると、十一代将軍家斉の男子を養子に迎えたり、女子を正室に迎えたりした大名が多発した。たとえば、阿波藩蜂須賀家、津山藩越前松平家、明石藩越前松平家などである。これらの当主は大広間から大廊下に転じる場合があった。

 

9「田沼意次の人物像」