士農工商の発生と中国

士農工商とは中国の春秋戦国時代(諸子百家)における「民」の分類で、例えば『管子』には「士農工商四民、国の礎」と記されている。士とは周代から春秋期頃にかけてまでは都市国家社会の支配階層である族長・貴族階層を指していたが、やがて領域国家の成長に伴う都市国家秩序の解体とともに、新たな領域国家の統治に与る知識人や官吏などを指すように意味が変質した。

この「士」階層に加えて農業、工業、商業の各職業を並べて「民全体」を意味する四字熟語になっていった。四民の順序は必ずしも一定せず、『荀子』では「農士工商」[注 2]、『春秋穀梁伝』では「士商農工」の順に並べている。

なお、中国では伝統的に土地に基づかず利の集中をはかる「商・工」よりも土地に根ざし穀物を生み出す「農」が重視されてきた。商人や職人に自由に利潤追求を許せば、その経済力によって支配階級が脅かされ、農民が重労働である農業を嫌って商工に転身する事により穀物の生産が減少して飢饉が発生し、ひいては社会秩序が崩壊すると考えたのである。これを理論化したのが、孔子の儒教である。

日本における士農工商の導入

士農工商の概念は奈良時代までには日本にも取り入れられ、続日本紀卷第七では「四民の徒、おのおのその業あり」などと記されている。日本における「士」がいつごろ本来の意味から武士を意味するように改変されたかは明確ではないが、遅くとも17世紀半ばまでにはそのような用法が確立とした思われる。

文献的証拠として、慶長8年(1603年)にイエズス会の宣教師が出版した『日葡辞書』と呼ばれる辞典には「士農工商」の項目が収録されており、また宮本武蔵『五輪書』(1645年)地之巻に「凡そ人の世を渡る事、士農工商とて四つの道也。(中略)三つには士の道。武士におゐては、道さまざまの兵具をこしらゑ、(後略)」といった用例がある。

近世日本の士農工商

兵農分離異説もあるが、徒士や足軽の多くが武装した農民から発生したものであるため、「士」と「農」の違いはかなり曖昧なものであった。その転換期は戦国時代後期である。天正9年(1582年)頃から始まった太閤検地や天正16年(1588年)の刀狩によって、それまで比較的流動性があった武士と百姓が分離され、その職業(身分)が固定化されるようになった。

こうした兵農分離政策は江戸時代に強化され、職業は世襲制となった。また、「士」(武士)が「四」ではなく支配者層として他の四民(三民)より上位に置かれ政治を行う階級とされ、苗字帯刀、切捨御免などの特権が認められ、髷の結い方、服装[4]などに差異が設けられ、士分とそうでないものの通婚は禁じられた。

しかしながら、江戸時代中期頃になると貨幣経済や産業の発達により商人が政治、経済に大きな影響力を持つようになり、大名貸のように武士が経済的に商人に依存するようになった。このため商人には町人でありながら扶持米や士分など武士身分並の待遇が与えられる者もいた。

これに類する立場として医師の存在があげられる。尾張藩の人見黍(弥右衛門)が、「医師は素より四民の内なれど、今は別の物なり。

商人の外、医ほど利の多きものはなし」(『太平絵詞』)と記したように、医師に対しては通常の四民にはない特権が認められていた。例えば、『武家諸法度』によって上級武士以外に自由に乗ることが許されなかった駕籠の利用を僧侶と医師に関しては例外として認められていた。更に農民や商人の子弟でも医師のもとで医学を学び領主の許可を得れば開業が可能であり、その能力が優れていれば、幕府や藩に召し抱えられて下級武士並の待遇が与えられることも多くあった[5]

さらに藩の召し抱えで職人が昇格することも多くあった。例として田中久重が挙げられる。

江戸時代の身分体系

上記のように士農工商の職業概念は実際の身分制度とは大きく異なっている。

江戸時代の諸制度に実際に現れる身分は、「士」(武士)を上位にし、農、商ではなく、「百姓」と「町人」を並べるものであった。

また、「工」という概念はなく、町に住む職人は町人、村に住む職人は百姓とされた。この制度では、百姓を村単位で、町人を町単位で把握し、両者の間に上下関係はなかった。

しかし百姓・町人身分は「平人」身分としてくくられ、「平人」が武士になることは多くなく、また、「平人」が「えた」「ひにん」などになることはめったになかった。

「えた」「ひにん」などと呼ばれた人々は、公家や武士はもちろん百姓や町人からも一線を画されており、彼らは「人外」、すなわち同じ人間ではないかのようにみられ、人間づきあいから「排除」されていた。

なお、百姓の生業は農業に限られるものではなく、海運業や手工業などによって財を成した者も多くいた。このような風潮に対し、天保の改革最中の天保13年(1842年)9月の御触書には「百姓の余技として、町人の商売を始めてはならない」という文があり、併せて農村出身の奉公人の給金に制限を設けているが、これは農業の衰退に繋がる事を危惧した幕府の対応策であったと考えられる。

つまり、江戸時代における百姓とは農業専従者である「農人」ではなく商人、職人を含む農村居住者全般を意味する言葉であったのである。このように、実際の江戸時代の身分制度は士農工商の職業概念から大きく乖離していた。

およそ、江戸時代の身分制は、全体としては、武士・平人・賤民の三つの身分層で成り立っていたとされる。また、熊本藩のように、時代や地方によっては「士」・「農」・「商(工・商)」の間にある程度上下身分的関係が存在し、藩が藩経済の根本として農業を重視し、百姓を本業に専念させるために「農」と「商」の政策的区別を意図して行って区別し、「農」を「商」より上位に位置づける配慮がなされ、その結果、「根本、商売ハ農より賤物」と言わしめるに至るなど、明確に身分的区分が存在した藩などもあった。