このため、特に意次の政策に限定して論ずる場合には「田沼の政治」や、江戸の三大改革にならって「田沼の改革」などと呼称されることもある。

下記、開始時期と見られることがある出来事とその年を記述する。

宝暦元年(1751年)

意次が徳川家重の御側御用取次(御側衆)に昇格。徳川吉宗死去。意次個人の出世歴というより享保期の終わりに対する起点と見なす。この年を基準とする場合には特に「宝暦・天明期」と呼ばれる。古くは辻善之助が定義した。

宝暦8年(1758年-1759年) 

旗本から1万石の大名に取り立てられ、評定所に出座。ここから本格的に幕政に参加した。また郡上一揆の沙汰において旧来の幕閣中枢が失脚したことも意次の躍進の契機とみなされる。

宝暦11年(1761年)

家重が亡くなり、遺言より徳川家治に重用される。あるいは前年の側用人・大岡忠光の死去を起点とする場合もある。

明和4年(1767年) 

徳川家治の側用人となる。一般的な起点。

安永8年(1779年) 

老中首座・松平武元の死去。これ以降、幕政を専横するようになったと見なされている。

終わりに関しては意次の失脚時期(及び寛政の改革の前年)である天明6年(1786年)でまず統一されているが、これは必ずしも翌1787年の天明の打ちこわしを含まないという意味ではない。

あくまで1786年は意次個人が失脚した年であって、幕府中枢に残っていた田沼派を放逐して幕政が改まった決定打は天明の打ちこわしであり、また上記のように民権発達の時期と考える辻はこれも田沼時代の重要な要素と見る。また、これも先述の通り宝暦・天明期という場合にも寛政への改元が行われた寛政元年(1789年)2月3日を終わりの目処とする。

主な改革

経済政策同業者組合である株仲間を奨励、真鍮座などの組織を結成させ、商人に専売制などの特権を与えて保護、運上金、冥加金を税として徴収した。

だがしかし、この冥加金などの上納は、例えば、京飛脚仲間は初年度30両、以降は10両、江戸三度飛脚屋仲間は初年度銀17枚、以降銀5枚などと規模の大きな株仲間だったとしても冥加金の額は少額であり、財政収入の増加という点でどれほどの効果があったのか、疑問を差し込む余地あり、幕府の財政収支に与えた影響はあまり大きかったとは考え難く、中井信彦氏などは冥加金は少額な為、財政上の意義は不明として冥加金の財政収入増加説に否定的である。

このように歴史学者の間でも田沼時代の幕府の意図をめぐっては、冥加金を上納させることによる財政収入増加策なのか、あるいは株仲間による流通統制、物価安定策だったのかと評価が分かれている。

また、堂島米市場での先物取引が公認されたことを背景として、先物買の一般化が商品流通を促進・円滑にすることを目的に堺・大阪・平野郷町に繰綿延売買会所が設立された。当初は盛況を示したが、過度の利潤追求が綿作業者の不安を煽って、地域農民の反発を招き、三箇所とも廃止された。[24]

財政支出補填のための五匁銀・南鐐二朱銀といった新貨の鋳造を行った。これは法定比価で金一両分だと元文銀104gに対し南鐐二朱銀八枚79gと設定したので元文銀を材料に南鐐二朱銀を鋳造すれば貨幣発行益が発生することを見越しての新貨鋳造だった。

しかし、これが結果的には貨幣の統一を促し、これまで不安定だった通貨制度を安定させた。殖産興業として天明の大飢饉の中にもかかわらず町人資本の出資による印旛沼・手賀沼干拓、農地開発を行った。

翌年完成したが、同年の天明の洪水で堤防などが流され失敗に終わった。貸金会所は寺社・農民・町人から金を出資させ、困窮する藩に貸付け、後に利子を付けて返すというものであったが、反発により挫折した。

外交政策一般には田沼意次の積極的な貿易政策で輸出を増やしたといわれているが、鈴木康子の著書「長崎奉行の研究」によると、海舶互市新例で定められた貿易総量を超えて貿易を始めたわけでも、銀を輸入する見返りに銅の輸出量を増加させたわけでもなく、貿易総額に変化はなかったことがわかる。田沼時代の積極的な貿易政策、というこれまでの評価は再考を求められている。

また、『赤蝦夷風説考』を著した工藤平助らの意見を登用し、蝦夷地(北海道)の直轄を計画、幕府による北方探査団を派遣した。

学問・思想

蘭学を手厚く保護し、足軽身分の平賀源内などとも親交を持った。田沼時代の自由な気風のなか、江戸では大槻玄沢が蘭学塾を開き、安永3年(1774年)には杉田玄白、前野良沢らがオランダ語医学書の『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』を刊行、市井では庶民文化が興隆する。

その他

士農工商の枠組にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みた。