その水野忠成が死し、大御所家斉も没した後、12代家慶が幕政改革に意欲を見せる。老中として改革を主導したのは忠成の同族の水野忠邦であった。忠邦が主導した諸改革を天保の改革と呼ぶ(1841年 – 1843年)。江川坦庵(英龍)・遠山景元・鳥居忠燿(燿蔵)ら実務派の官僚が採用されたが、内容自体は田沼時代を受けた寛政の改革の再来ともいえ、新味は無かった。

主な改革としては、綱紀粛正・倹約令徹底による消費の抑制、人返しの法による都市住民の農村への帰還、株仲間の解散令、棄捐令などである。また対外政策では、大御所時代に出された無二念打払令を改め、無用の戦を避けるため薪水給与令が出され、江川や高島秋帆による西洋砲術導入による国防策も図られた。背景には同時期に清国で勃発した阿片戦争による危機感があったと思われる。

ただし、水野の腹心・鳥居燿蔵は蘭学を嫌い、蛮社の獄を起こした人物でもあり、政権内で不協和音となった。数々の改革も財政の健全化には結びつかず、また倹約令の徹底によって庶民の恨みも買ったことから、水野の求心力は急速に低下した。

また、国防上の必要性から江戸・大坂の大名・旗本領を幕府に召し上げようとする上知令を推進しようとしたところ、大名・商人らの猛反撥を招くこととなり、将軍家慶自ら撤回を命ずる事態となり、水野は失脚し、天保の改革はわずか2年にして崩壊した。

翌年、対外政策の紛糾により、再度老中に任命されたものの、相変わらず幕閣・大名の不信は強く、1年にして辞任に追い込まれた。

幕末の改革

詳細は「安政の改革」、「文久の改革」、および「慶応の改革」を参照

天保の改革が失敗に終わったことにより、幕府は財政・体制ともに壊滅的危機を迎え、同時代の清国やオスマン帝国と同様に、「瀕死の病人」と化した。また、諸外国からの開国要求も盛んとなっていったため、対外政策に関しても改革を行う必要が叫ばれた。水野忠邦失脚後の政局は土井利位、ついで阿部正弘が担うことになる。

嘉永6年(1853年)にペリー艦隊が来航した直後、将軍家慶が死去し、病弱な13代家定が後を嗣ぎ、翌年の日米和親条約締結に伴う政治的混乱の中で、阿部主導による安政の改革が行われた。

外様大名(薩摩藩の島津斉彬)や親藩・御三家(越前藩の松平慶永や水戸藩の徳川斉昭等)の幕政への参入や、長崎の海軍伝習所の設置等が行われるが、阿部は安政4年(1857年)、39歳で死去した。

阿部の死後は堀田正睦が改革を主導したが、条約勅許をめぐる朝廷との対立や、病弱な将軍の後継を巡る一橋派(慶喜・後の15代を推す勢力)と南紀派(慶福、のち家茂・後の14代を推す勢力)との対立(将軍継嗣問題)、また外様や御三家の幕政介入に反撥した譜代大名の筆頭井伊直弼が大老に就任したことにより改革は挫折し、かえって井伊による安政の大獄を招くこととなった。然し井伊は桜田門外の変で暗殺され、老中久世広周・安藤信正らに主導権は移る。

幕府権威の低下を防ぐため、安藤らは将軍家茂と皇女和宮親子内親王の婚姻で公武合体による幕権強化策を図るが、折から澎湃として沸き起こった尊王攘夷運動の志士たちから反撥を受け、坂下門外の変により安藤が失脚、公武合体は頓挫する。もはや幕政の混乱、幕府権威の低下は誰の目にも明らかであった。

そんな中、文久2年(1862年)薩摩藩主の父島津久光が朝廷を動かして勅使(大原重徳)を出させ、幕府に改革を迫るという事態が発生する(→文久の改革)。政事総裁職(松平慶永)・将軍後見職(徳川慶喜)・京都守護職(会津藩主松平容保)などが新設される。

しかし、外様大名や朝廷の介入による幕政改革の強制は幕府権威をいっそう低下させ、これにより幕府崩壊の方向性は決定的となった。

また翌年、将軍家茂が上洛すると、幕府権力が京都と江戸で分裂することになり、京都政界を主導する徳川慶喜・松平容保らと、江戸の留守を守る譜代大名・旗本らとの亀裂も生じた。

1866年(慶応2年)には既にイギリスのオリエンタル・バンクの支店が横浜に設立されていたと言われ、幕府は長州藩に対抗するため、同年8月、同銀行と600万ドルの借款契約を締結した。

二度に及ぶ長州征伐が失敗に終わり、将軍家茂の病死によって慶喜が将軍となると、慶応3年(1867年)に、最後の改革となる慶応の改革が行われ、陸軍・海軍・国内事務・外国事務・会計の各総裁が置かれるなど官制の変更やナポレオン3世の援助によるフランス軍制の導入が行われたが、もはや焼け石に水であった。同年11月9日(旧暦10月14日)、慶喜は大政奉還を宣言し、翌1868年5月3日(旧暦4月11日)には江戸城が新政府(明治政府)軍に占領され、江戸幕府は265年間に及ぶ歴史に幕を下ろした。

田沼時代(たぬまじだい)とは、日本の歴史(江戸時代中後期)において、老中・田沼意次が幕政に参与していた時期を中心とした時代区分。

史学上は宝暦・天明期(ほうりゃく・てんめいき)として、宝暦・明和・安永・天明期(1751年-1789年)、すなわち享保の改革と寛政の改革の間の約半世紀の時代を指す。

意次が権勢を誇った期間を基準とする場合には、定義がいくつかあるが、概ね意次が側用人職に昇格した1767年(明和4年)から意次が失脚する1786年(天明6年)までと説明することが多い。単に「田沼期」や「田沼の改革」「田沼の政治」といった呼ばれ方もある。

この時代の特徴として一般には伝統的な緊縮財政策を捨て、それまで見られなかった商業資本の利用など積極的な政策を取ったとされる。一方では政治腐敗の時代、暗黒時代などとみなされ、賄賂政治の代名詞としても有名。

一般にはその名を冠するように意次が世相を主導した時代区分と思われているが、当初より意次個人が絶大な権勢を奮ったわけではなく、今日にイメージされる幕政の専横は安永8年(1779年)とされ、特に天明元年を契機とする。

また、古くは辻善之助が享保の改革期に連なる時代区分として宝暦-天明期の歴史的意義を評価し、この期間の代表的人物として意次を挙げて田沼時代と称する。戦後においては林基や佐々木潤之介ら以降に、先述の通り宝暦・天明期を1つの時代区分として見ることが通説化しており、特に近年においては化政文化に先立つものとして宝暦・天明文化が定義されている。

また、重農主義の否定や商業資本が初めて用いられたという一般的な説も厳密には正しくない。