そのため吉宗は、倹約令で消費を抑える一方、新田開発による米増産、検見法に代わって定免法を採用したことによる収入の安定、上米令発布による各大名からの米徴収、堂島米会所の公認など、米に関する改革を多く行ったため、「米将軍」の異名を取った。米価対策の他にも目安箱の設置、足高の制による人材抜擢制度の整備や、江戸南町奉行大岡忠相が中心となった江戸の都市政策(町火消の創設、小石川養生所の設置)、西洋知識禁制の緩和(漢訳洋書禁輸の緩和、甘藷栽培など)、商人対策(相対済令、株仲間の公認など)などの諸改革が行われた。また、相対済し令や、公事方御定書発布によって、評定所の負担を軽減するとともに当時の裁判規定を作った。

公事方御定書は三奉行、加えて一部の役職に就く者しか閲覧できなかったが、諸藩が極秘裏に写本を入手し、自領内の裁定に活用した。

さらに、将軍継嗣を安定して供給するため、清水家・一橋家・田安家のいわゆる御三卿が新設された(正確には清水家が創設され御三卿となったのは九代将軍家重期)。

幕府財政は一部で健全化し、1744年には江戸時代を通じて最高の税収となったが、税率変更や倹約の徹底により百姓・町民からの不満を招き百姓一揆・打ちこわしなどが頻発した。もはや米作収入に依存する財政は矛盾を解消できない段階に到達しつつあった。

田沼時代

詳細は「田沼時代」を参照

吉宗が行った享保の改革によって、幕府の財政赤字は解決をみたが、続く9代家重の時代に一揆の頻発などの問題が顕在化する。結果、現場の代官の判断による負担軽減策が図られ、再び幕府財政は悪化する。家重時代の末期から続く10代家治時代にかけて幕政を主導し財政を立て直したのが、八代将軍吉宗に仕えた旗本田沼意行の息子で、御用御側取次から側用人を経て老中となった田沼意次である(なお、これ以後の幕政改革は、ほぼ老中が主導することになる)。

田沼が政治改革を主導した時期を「田沼時代」と呼ぶ(1760年代 – 1786年頃)。意次が一介の旗本から老中格にまで昇進したのは、九代家重に気に入られ、遺言でも意次を重用するようにとあり、それを受けて十代家治がよく用いたからである。

田沼は、それまでの農業依存の幕府経済を改め、重商主義的な改革を行うことによって財政の立て直しを図る。株仲間の奨励策による運上金・冥加金の徴収、町人資本による印旛沼・手賀沼の干拓事業に代表される新田開発、長崎貿易の推奨(特に俵物など輸出商品の増産)など、積極的に改革を推し進め、幕府財政を立て直すことに成功した。

また、蘭学の奨励、工藤平助らの提案による蝦夷地調査、アイヌを通じた対ロシア交易の模索など、海外政策の改革も行っている。その結果、幕府の現金収益は、これまでの最高を記録する。その一方で、重商主義から来る金銭崇拝的傾向が瀰漫し、賄賂政治が横行したとされ、また幕府伝統の重農主義を重んずる松平定信ら譜代大名から反撥されるようになる。田沼時代の約20年目に起きた浅間山の噴火とそれによる凶作(天明の大飢饉)は、それまでの成果を無に帰す事となり、再び幕府財政は悪化する。

加えて凶作期においては、それまでの新田開発が裏目に出る事になり(新しく開拓された水田は、当然ながら従前の水田よりも条件が悪いため、凶作の影響も大きい)、特に印旛沼干拓事業は無惨な失敗となる。

江戸城内での旗本佐野政言による子の田沼意知暗殺や、後ろ盾であった将軍家治の死などの不運が重なったことにより、田沼が失脚したことで田沼政治は終局する。

寛政の改革

詳細は「寛政の改革」を参照

11代将軍となった家斉の初期を補佐した老中が松平定信である。彼は田沼時代の弛緩した雰囲気を粛正すべく寛政の改革をスタートすることとなった(1787年 – 1793年、さらに1817年まで寛政の遺老によって政策は継続)。

定信は将軍吉宗の孫にあたり、吉宗の改革を理想としたため、田沼時代のインフレを収めるため、質素倹約・風紀取り締まりを進め、超緊縮財政で臨んだ。この改革の性格は田沼時代の全否定であり、すなわち重商主義政策は抑えられ株仲間は解散を命じられ、大名に囲米を義務づけ、江戸へ流入した百姓を出身地へ強制的に帰還させ(旧里帰農令)、また棄捐令を発して旗本・御家人らの救済を図るなど、保守的な傾向が強かった。

また蘭学を再び厳しく取り締まり、出版統制や風紀粛正を行った。また学問分野では寛政異学の禁で朱子学を公式の学問とし、林家の私塾であった昌平坂学問所(昌平黌)を官立とするなど文武の奨励を行った。対外対策では、林子平の蝦夷地対策を発禁処分として処罰し、漂流者大黒屋光太夫を届けたロシアのラクスマンに対し交易を完全に拒絶するなど、強硬姿勢で臨んだ。

都市政策としては先述の旧里帰農令に加え、人足寄場の設置などを行う。全体として町人・百姓に厳しく、武士を優遇する改革でもあり、人心は定信の理想についていけないままであった。

また重商主義政策の放棄により、田沼時代に健全化した財政は再び悪化に転じ、もはや倹約令ごときでは回復不能であった。結局、改革も人心収攬に失敗し、また尊号一件などにより家斉の不興を買ったことで、定信は改革わずか6年目にして失脚して老中を辞任する。

ただしその後継としては、松平定信派の松平信明が老中首座となる。信明をはじめ戸田氏教、本多忠籌ら定信が登用した老中たちが幕政を主導することになり、これを「寛政の遺老」と呼ぶ。これによって寛政の改革の政策は実質的に継続することとなる。

ただし田沼時代に田沼意次を支えた水野忠友や、息子の意正が復権するなど、田沼時代への回帰も見られる。しかし1817年に信明が死去すると、これに前後して他の遺老たちも引退してこの政権も終焉を迎える。

天保の改革

詳細は「天保の改革」を参照

松平信明が死去すると将軍家斉(のち隠居して大御所)が自ら政権の表に立つ。ただし実際には、側近である老中水野忠成が幕政を壟断し、田沼時代を上回る空前の賄賂政治が横行した(→大御所時代)。