「田沼全盛時代

この頃より老中首座である松平武元など意次を中心とした幕府の閣僚は、数々の幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれる権勢を握る。悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。

内容は株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼や手賀沼の干拓に着手する、などの政策を実施した。田沼時代の政策は幕府の利益や都合を優先させる政策であり諸大名や庶民の反発を浴びた。また、幕府役人のあいだで賄賂や縁故による人事が横行するなど、武士本来の士風を退廃させたとする批判がおこった。

松平 武元(まつだいら たけちか)は、江戸時代中期の大名。上野国館林藩主、陸奥国棚倉藩主。官位は従四位下・侍従、右近衛将監。越智松平家3代。親藩(御家門)ながら江戸幕府の寺社奉行、老中を務めた。

略歴

常陸国府中藩3代藩主・松平頼明の次男として誕生。

享保13年(1728年)、上野国館林藩2代藩主・松平武雅の養嗣子となり家督を相続、その直後に陸奥棚倉に移封された。稲葉迂齋(稲葉正義、稲葉正誼とも)に師事する。延享3年(1746年)に西丸老中に就任し、上野館林に再封される。延享4年(1747年)に老中、明和元年(1764年)に老中首座に就いた。

徳川吉宗、家重、家治の3代の将軍に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。老中在任時後半期は田沼意次と協力関係にあった。老中首座は安永8年(1779年)死去までの15年間務めた。武元死後は、四男・武寛が家督を継いだ。

幕政改革(ばくせいかいかく)は、幕府政治において財政や制度、統治などの改革や諸政策を指す。一般に単に幕政改革と言った場合には江戸時代に江戸幕府が行った改革を指し、特に享保の改革・寛政の改革・天保の改革の3つを指して三大改革と呼ばれるのが史学上の慣例となっている。しかし、それ以外にも大規模な財政・制度改革は行われており、正徳の治や田沼時代など「改革」と付かないものもある。

本稿では江戸時代に行われた幕政改革や制度に大きな影響を与えた政策変更について概説する。

三大改革論

一般に江戸時代の改革というと、享保の改革・寛政の改革・天保の改革の3つを指して三大改革と呼ぶことが通例となっている。近世日本史学において、この3つを三大改革と定義づける理解がいつから始まったかはよくわかっておらず、藤田覚は、ひとまず戦前の研究の到達点として1944年の本庄栄治郎の著作『近世日本の三大改革』があることを挙げている。

そもそも具体的な政策に対して「享保の改革」などと呼ぶ習わしは当時に無く、「〇〇の改革」や「三大改革」という言葉は近代歴史学の造語である。ただし、天保の改革では、その最初の趣旨説明で老中・水野忠邦から将軍の上意として「享保と寛政を模倣とする」と宣言されており、享保・寛政・天保の3つを特別扱いするのは、元を辿れば、このような江戸幕府の史観を踏襲するものと藤田は指摘している。

各改革の内容

幕藩体制の成立期

詳細は「武断政治」を参照

初代将軍徳川家康、2代秀忠、3代家光の時代は、江戸幕府体制の確立期にあたり、この期間における諸改革は「改革」というよりもむしろ「体制固め」というべきであるため、幕政改革には含まれない。家康・秀忠の2代において(大御所時代も含む)、江戸時代幕藩体制の基本的骨格が創作されていく。

大名統制(武家諸法度、参勤交代、改易)、農民統制(宗門改め)、宗教政策(切支丹禁令、寺院諸法度)、朝廷政策(禁中並公家諸法度)、海禁政策(いわゆる一連の鎖国令)、譜代大名による幕政の独占など、基本的な幕府の政治制度が整えられていき、一応の完成を見たのは3代徳川家光の時代である。

続く4代家綱の時代は、松平信綱・酒井忠勝ら有能な老中らに恵まれ、安定した幕府政治が行われた。

綱吉の政治と正徳の治

詳細は「正徳の治」を参照

しかし、安定した幕府政治も完璧という訳ではなく、様々な矛盾は当初から内包され、次第に問題化していくことになる。とりわけ幕府財政の危機は、諸国の幕府直轄金山・銀山の枯渇傾向、長崎における海外交易赤字による金銀の流出、明暦の大火・大地震・富士山の噴火などの災害復興事業による出費などから、いち早く訪れた。

5代将軍となった徳川綱吉は、儒教による理念的な政治思想を掲げつつも、財政改革の必要に迫られ、勘定奉行に荻原重秀を抜擢して解決を図った。荻原は元禄小判による貨幣改鋳(金含有率を減らして貨幣流通量を増やす)によって財政問題を一時的に解決するが、結果として元禄期のインフレ状況を生じることとなり、物価の高騰を招いた。

ただし現在ではこのインフレ政策(金融政策)と、綱吉と桂昌院による寺社改築など公共投資(財政政策)により、金回りが良くなって好景気となり、元禄文化が華開いたと、肯定的に見直す向きもある。また、財政以外の改革では生類憐れみの令が知られる。

6代将軍となった徳川家宣は甲府徳川家から徳川宗家を継ぎ将軍職となると、甲府藩家臣であった側用人の間部詮房や学者の新井白石を起用し、改革を行った。間部・新井が主導した改革を年号をとって「正徳の治」という。綱吉時代の政策は否定され、生類憐れみの令は撤回、勘定吟味役の創設、正徳金銀発行(デフレ政策)による綱吉時代の財政矛盾の解決などを行ったが、6代将軍家宣・7代将軍家継があいついで早世したため、改革は中途半端に終わった。

享保の改革

詳細は「享保の改革」を参照

8代将軍となった徳川吉宗は、紀州徳川家の出身であり、それまでの幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく、大胆に政治改革を主導することとなった。将軍吉宗自ら主導した改革を「享保の改革」と呼ぶ(1716年 – 1745年)。

吉宗が最も心を砕いたのは米価の安定であった。商品流通・貨幣経済の発展に伴い、諸物価の基準であった米価は江戸時代を通じて下落を続け、「米価安の諸色高」と言われた状況にあり、米収入を俸禄の基本とする旗本・下級武士の困窮に直接つながっていたためである。