善後策を協議した剣村藤次郎、栃洞村清兵衛は、1人が江戸に残りもう1人が江戸の状況を伝えるために郡上に戻ることにしたが、大きな危険が予想される江戸に残る役割を、剣村藤次郎、栃洞村清兵衛ともに自分が担うといって聞かなかった。

結局2人のうち年長の栃洞村清兵衛が江戸に残り、剣村藤次郎が郡上に戻ることになった。栃洞村清兵衛はまもなく郡上藩側に捕えられ、江戸金森藩邸に監禁された。清兵衛は取調べが行われることも無く重病になっても監禁され続け、結局牢死した。後に評定所で郡上一揆の吟味が行われた際に、郡上藩役人の手落ちの1つとして栃洞村清兵衛の牢死が取り上げられた。

また郡上に戻った剣村藤次郎はその後も一揆の中核の1人として活躍を続け、宝暦8年(1758年)に行われた目安箱への箱訴を行った農民の1人となった。

藩の弾圧と一揆の弱体化

庄屋たちが郡上藩領内に戻った宝暦5年(1755年)10月末頃から、藩による一揆の弾圧が激しさを増すようになった。弾圧は江戸在府中の藩主金森頼錦の命を受け郡上に戻った用人宮部半左衛門が中心となり、宝暦5年10月25日(1755年11月28日)に三家老の免許状を紛失した件で村預けになっていた小野村半十郎に入牢を申し付けたのを皮切りに、一揆の首謀格と見られた農民30名あまりを拘束し入牢を申し付け、更に100名余りを手錠、村預けの処分を下した。

宝暦5年11月になると藩の弾圧はいよいよ激しさを増した。郡上領内では入牢、手錠、宿預けの処分が連日60-70名行われ、激しい弾圧を避けるために郡上領内から逃げた農民も約200名に及んだ。

一揆を弾圧しながら藩側は検見法による年貢取立てを強行し、とりわけ抵抗が激しい郡上郡内の上保之川(長良川)流域の上保之筋と吉田川流域の明方筋では、藩側も重点的に一揆勢の取締りを行った。井上正辰邸に訴状を提出した後に郡上へ戻ることになった剣村藤次郎も、11月半ばに関寄合所まで戻って江戸の情勢を伝え、その後郡上領内に戻ったものの、やはり藩側に拘束後投獄された。

一揆勢に対する藩側の攻勢により、一揆から脱落する農民が続出し、最盛期には約5000人の農民が参加していたという一揆勢は数百人にまで減少した。

この頃からあくまで一揆に参加し続ける農民たちを立者、立者が多い村を立村、一方、一揆から脱落し藩側に従順な農民たちを寝者、寝者が多い村を寝村と呼ぶようになった。

なお郡上一揆と同時期、郡上藩の預り地であった石徹白では石徹白騒動が起きており、宝暦5年11月末から宝暦5年12月21日(1756年1月22日)にかけて500余名の人々が石徹白から追放されるなど混乱が長期化していた。郡上一揆と石徹白騒動は発生原因や経緯が異なる別個の事件であり、両者の事件当事者間ではっきりした連携がなされた形跡も見られない。

しかし郡上藩側としては、石徹白騒動で行った500名以上の社人追放というきわめて強硬な処分は、一揆を続ける郡上藩領の農民への見せしめとする意図があった。

一揆勢の巻き返し

越訴の実行を決める

宝暦5年(1755年)11月半ばに江戸から戻った剣村藤次郎は、関寄合所、それから郡上領内に戻って江戸の実情を伝えた。藤次郎から宝暦5年8月13日(1755年9月18日)に江戸に向かった農民代表らが郡上藩側に拘束されたと見られ、また藩主の弟、井上遠江守の邸に訴状を提出した剣村藤次郎、栃洞村清兵衛も藩側から追われる身となったことが伝えられ、一揆勢に参加する農民たちは憤激した。

折りしも郡上領内では藩側の弾圧が激しさを増し、一揆から脱落する農民が相次いでいた。一揆勢は窮地に追い込まれている状況を打破するために、郡上藩ではなく幕府に直接裁きを受ける越訴を行うことを決定した。

関寄合所では越訴を実行する願主を選ぶこととし、東気良村善右衛門、切立村喜四郎、前谷村定次郎、那比村藤吉の5名が願主に選ばれ、うち東気良村善右衛門、切立村喜四郎の両名が本願主となった。

  宝暦5年(1755年)11月半ば過ぎ、5名の願主に55ヵ村から選ばれた73名が付き添い、江戸へ向かった。一行は江戸に到着すると神田橋本町の秩父屋半七宅に宿所を定め、井上遠江守への追訴の際にも訴状作成に協力した公事師島村良仙の協力を仰ぎ、訴状を作成するなど幕府への追訴の準備を進めた。

駕籠訴決行

宝暦5年11月26日(1755年12月28日)、東気良村善右衛門、切立村喜四郎、前谷村定次郎、東気良村長助、那比村藤吉の願主5名に高原村弁次郎を加えた6名は、駕籠訴を決行するために老中酒井忠寄の江戸城登城の行列を待った。酒井老中の行列が現れると、訴状を提出しようと老中が乗った駕籠に駆け寄った。

供の侍らに蹴散らされながらも、大声で泣きながら訴える声を聞きつけた酒井老中から声を掛けられたため、「美濃国郡上の百姓で、御訴訟願い奉る」と訴状を差し出した。酒井老中は駕籠訴人らの宿所を尋ね、自らの邸に連れて行くよう命じた。

老中酒井忠寄の邸で帰宅を待っていた駕籠訴人は、夕刻の老中帰宅後に訴状が受理され、明日宿の主人とともに出頭するように伝えられた。宝暦5年11月27日(1755年12月29日)、宿の主人である秩父屋半七とともに出頭した駕籠訴人は、老中酒井忠寄から事情聴取を受けたあと、遠いところからやってきたので宿でしばらく休息するようにとの言葉をかけられた。

なお江戸時代を通じ、老中など幕府要人の駕籠に直訴を行ういわゆる駕籠訴はしばしば見られたが、駕籠訴という言葉が初めて用いられたのは、郡上一揆における宝暦5年11月26日(1755年12月28日)の老中酒井忠寄に対して行った直訴が最初であり、越訴という言葉もほぼ同時期に定着することから、宝暦から天明期にかけて一揆や騒動の訴訟で越訴、そして駕籠訴という方法が多く用いられるようになったものと考えられる。

また駕籠訴の実行は、東気良村善右衛門、切立村喜四郎、前谷村定次郎、東気良村長助、那比村藤吉の願主5名に加えて高原村弁次郎が参加したと考えられるが、弁次郎は土地を持たぬ水呑百姓であったため、正式な駕籠訴人とは認められなかった。

そのため駕籠訴の後も、他の5名の駕籠訴人と異なり村預けの処分も下されることなく、一揆勢の江戸への飛脚などとして活躍を続け、後の評定所の裁判の際も罪を免れることになった。