この願書を受け取った江戸金森藩邸は十六か条の願書提出を命じたため、農民たちは十六か条の願書に加えて、新たに十七か条の願書を作成し、一緒に提出した。十六か条と新たに作成された十七か条の願書を比較すると、十七か条はまず十六か条にはなかった総百姓名での提出であることと、農民が使役された際の賃金支給や、藩が勝手に村有林を伐採して伐採した材木を農民に運搬させることを中止するように願うなど、農民の生活に直接関係する訴えが多く、一揆の運動主体が中、貧農層に移ってきたことが想定される。

宝暦5年8月13日(1755年9月18日)に農民代表が江戸へ向けて出発したことが、郡上藩の国元から江戸屋敷への急使によって知らされていた。

郡上藩江戸家老の伊藤弥一郎らは対応策を練っており、農民代表らの対応に当たった用人の宇都宮は、代表を宿預けとした上でたびたび藩邸に呼び寄せたあげく、最終的には農民代表全員を牛込御箪笥町の藩別邸に監禁した。

一揆勢の危機

意見対立の表面化

郡上領の境にあたる母野には、庄屋たちの郡上帰還を阻止するために大勢の農民が集まり続けていた。

宝暦5年7月21日(1755年8月28日)の笠松陣屋における検見法受け入れの強要後に再燃した一揆は、騒動開始直後の高揚に加えて、農民内の主だった者が江戸に出訴した後には押さえが効かなくなったこともあり、過度に先鋭化した行動も見られた。例えば年貢を納めるように郡上藩側から指示が有ると、母野から少しも年貢を納めてはならない旨の指示がやってきたり、特に水呑百姓の中には寺社奉行の高札を引き抜くなど過激な行動に走る者も現れた。

しかし早くも一揆勢内部に意見対立が現れ始めた。まず江戸出訴を行った40名の農民代表が分かれて宿泊した馬喰町猶右衛門宿、鉄砲町太郎右衛門宿の農民たちの間に意見対立が発生した。

馬喰町猶右衛門宿に止宿した切立村喜四郎らはあくまで検見法を受け入れない立場を貫くべきだと主張したのに対し、鉄砲町太郎右衛門宿に止宿した歩岐島増右衛門らは宝暦4年(1754年)の十六か条、そして江戸出訴組が提出した十七か条の願書の受け入れを条件として検見法を受け入れるべきであると主張した。検見法受け入れ絶対阻止の切立村喜四郎らは郡上一揆の主流派となり、その後の運動を主導していくことになるが、反主流派となった歩岐島増右衛門らはやがて一揆に反対する強固な寝者となっていった。

庄屋帰還阻止運動の終結と関寄合所の開設

宝暦5年10月1日(1755年11月4日)、郡上藩の役人らが郡上藩境の母野で庄屋の帰還阻止活動をしている農民たちのところに現れ、農民らに宗門改めを行わねばならぬ時期に、宗門改めの実務を行う庄屋の帰還を阻止しているのは不届きであると通告した。同日、郡上藩の寺社奉行である根尾甚左衛門からも母野に集結していた農民らに騒動を止めるよう書状が送られたが、農民たちは那留村丹右衛門家来文六を使いに出して書状を寺社奉行に送り返した。使いとなった文六は縄手錠をかけられ、那留村丹右衛門家預けの処分となった。

宝暦5年10月7日(1755年11月10日)、寺社奉行根尾甚左衛門は各村に宗門改めの実施を正式に通知した。そして根尾寺社奉行は各村の寺院に対し、宗門改めの実施のため農民らに庄屋帰還阻止運動を止めるように説得するよう伝えた。

宝暦5年10月15日(1755年11月18日)、庄屋約120名が母野にやって来て、宗門改め実施のために郡上郡内に戻れるよう、農民らに説得を行ったが、この時は3000人と伝えられる農民らが庄屋たちの郡上帰還を阻止した。翌16、17日も5、6000人と伝えられる農民が母野に集結して庄屋帰還を阻止しようとしたが、宝暦5年10月23日(1755年11月26日)には、郡上郡の南部である下川筋の庄屋はひそかに帰還して宗門改めを行った。その後母野の農民たちの間で、庄屋の不在によって宗門改めを実施できないのはやはりまずいとの判断がなされ、約2ヵ月半に及んだ庄屋帰還阻止運動は終結した。

庄屋が郡上郡内に帰還した頃には藩による弾圧が強化されたため、母野に集結していた農民たちは郡上藩外の関(現関市)の新長谷寺付近に家を借り、活動拠点を移すことにした。関寄合所と呼ばれようになった新たな拠点は、新長谷寺の門前町として賑わい人々の往来が盛んな関にあるため、郡上の農民らの出入りが目に付きにくかった。また郡上からも比較的近く、交通の要衝にあるため、郡上、江戸との連絡にも便利であった。

宝暦8年(1758年)の郡上一揆解決まで、関寄合所は郡上藩の弾圧から逃れる避難所として利用されるとともに、江戸からの情報は藩や一揆に反対する寝者の情報操作を警戒して、必ず関連絡所を通じて郡上に伝えられることにするという情報統制を行い、文字通り郡上と江戸とを繋ぐ中枢の役割を担った。

追訴の実行

江戸に出訴を行った農民たちからの連絡がないため、宝暦5年10月下旬、剣村藤次郎、栃洞村清兵衛の2名が新たに江戸に派遣された。二名は宝暦5年10月29日(1755年12月2日)、江戸に到着し、豊島町森田屋藤右衛門宅に宿を定めた。

剣村藤次郎、栃洞村清兵衛はさっそく金森屋敷に向かい、40名の農民代表の消息について探りを入れてみたが全く手がかりがつかめなかったため、40名が郡上藩によって軟禁されているものと判断し、郡上藩に改めて訴えを行うことは危険性が高いため、公事師であった医師の島村良仙の協力で新たに訴状を作成した上で、藩主金森頼錦の弟である井上遠江守の邸[† 9]に訴状を提出した。

訴えを受けた井上家側は、翌宝暦5年11月1日(1755年12月3日)、家老の井上源太夫が郡上藩邸に出向き、訴状を役人に見せたが郡上藩側は全く取り合おうとはしなかった。

かえって郡上から新たに上訴を行う農民がやって来たことを知った藩側は、剣村藤次郎、栃洞村清兵衛が泊まる豊島町森田屋藤右衛門宅に足軽を差し向け捕えようとした。突然、剣村藤次郎、栃洞村清兵衛の消息を尋ねる郡上藩足軽が現れた森田屋藤右衛門宅では、藤右衛門がとっさに2人とも不在である旨伝えたものの、足軽からは2人の引渡しを命じられた。