転封が続いた金森家

郡上一揆当時の郡上藩主は金森頼錦であった。金森氏は天正18年(1585年)に金森長近が飛騨を平定し、3万8700石の領有を認められた後、関ヶ原の戦いで東軍に属したため、金森氏は引き続き高山藩主として飛騨一国を治めていた。

第6代藩主である金森頼時の元禄5年(1692年)7月、金森頼時は飛騨の領地を召し上げられ出羽上山に転封となった。

金森氏領地であった飛騨は天領となり、これは幕府が飛騨の豊かな山林資源や鉱物資源に目を付け、天領とするために金森氏を転封させたとも言われているが、転封の真の理由ははっきりしない。

しかし金森氏の上山領有はわずか5年足らずで終わり、元禄10年(1697年)6月、今度は郡上へ転封となった。

二度に渡る転封により金森氏の財政は大きく圧迫された。上山時代、財政難に見舞われた金森頼時は幕府の許可を得て家臣の召し放ちを行ったが、郡上藩主となった直後の元禄12年(1699年)、前々藩主であった井上正任、前藩主井上正岑の定めた、作物の収穫高を行った上で年貢高を決定する検見法による税率が高かったことにより、農民らが江戸表の金森藩邸に訴えるという事態が発生したため、金森頼時は作高に関わらず定率の年貢を賦課する定免法へと変更し、それに伴い税率も引き下げられた。

転封とその直後に実施した税率引き下げにより財政状況が更に悪化したため、元禄14年(1701年)には幕府の許可を得て更なる家臣の召し放ちを行わざるを得なかった。

その上、江戸の芝金椙邸は享保2年(1717年)に焼失し、享保8年(1723年)9月には再建されたが、翌10月に再び焼失してしまった。藩の財政難を案じた金森頼時はその後江戸藩邸の再建を行わず、元文元年(1736年)、仮住まいの江戸芝の藩邸で死去した。

幕府経済政策の曲がり角

17世紀初頭の江戸幕府の開始時からしばらくの間、幕府財政は健全財政を保っていた。当初、幕府の財政を支えていたのが天領からの年貢収入の他に、金山、銀山からの鉱業収入、そして貿易収入であった。

しかし17世紀後半になると鉱山の金銀産出量は激減し、貿易も厳しい制限が加えられるようになったためやはり収入が激減し、勢い幕府財政はそのほとんどを天領からの年貢収入で賄わざるを得なくなった。

また支出の面から見ても、明暦の大火、そして5代将軍徳川綱吉による盛んな神社仏閣の建立、そして貨幣経済の発展による物価上昇によって、支出は膨らむ一方となり、元禄年間に入り幕府財政は赤字に転落した。

幕府はまず貨幣の改鋳で収入を得るなどの対応策を立てるが、徳川吉宗による享保の改革によって、新田開発による耕地面積の拡大、そして年貢徴収率を高める年貢増徴策を押し進めることになった。幕府で年貢増徴策を強力に進めたのが老中の松平乗邑と勘定奉行の神尾春央であり、農村支配に通暁した「地方巧者」と呼ばれた人材を登用し、その結果、延享元年(1744年)には年貢収公量が180万石と江戸幕府最高の数値を記録した。

幕府の天領で進められた厳しい年貢の取立ては、やはり財政難に悩む諸藩にも広まっていったが、年貢増徴は必然的に農民の激しい反発を招いた。

享保期には一揆が頻発するようになり、更に一揆そのものの形態も、宝暦、天明期には年貢増徴策に対抗するために藩全体が蜂起する、全藩一揆と呼ばれる広範囲に影響が及ぶ大規模な一揆が頻発するようになった。郡上一揆はこうした全藩一揆の1つであった。

そのような中、幕府は寛延3年(1750年)には幕領、大名領の農民の強訴、逃散を禁じる法令を出し、その後も厳しく一揆を取り締まる法令を次々と出して一揆の封じ込めに腐心したが、延享元年(1744年)以降、年貢収公量はじりじりと下がり始めた。

また、米の値段が他の物価に比べて安い状態が続いたため、年貢米に依存する幕府や諸藩、そして武士の実収入も伸び悩み、そのような点からも年貢を厳しく取り立てることによって幕府財政健全化を図る政策に限界が見えてきた。郡上一揆が発生した宝暦期、幕府では享保の改革の方針を守る年貢増徴派に対し、商業資本などからの間接税収入に活路を見出そうとする派が現れ始め、路線対立が表面化していた。

一揆のきっかけ

金森頼錦藩主となる

元文元年5月23日(1736年7月1日)、郡上藩主金森頼時は江戸芝の仮藩邸で没した。頼時の長男であり嫡子であった金森可寛はすでに亡くなっていたため、可寛の長男である頼錦が元文元年7月18日(1736年8月24日)に正式に郡上藩藩主の地位を継承した。

頼錦は藩主継承時23歳であった。金森頼錦は自ら絵筆を取って寺社に絵馬を奉納し、また現在まで頼錦が描いた絵画が遺されており、歌集、漢詩集の編纂を行い、盛んに詩碑の建立を行うなど、詩歌、書画を好んだ文化人であった。

そして時の将軍徳川吉宗は、金森頼錦が学問の志厚く、天文に興味を持っていることを聞き及び、延享元年(1744年)、頼錦に対して郡上八幡で天文観測を行い、その成果を報告するよう命じた。

頼錦は吉宗の命に従い郡上八幡で天文観測を行い、翌延享2年(1745年)に観測結果を献上したとの記録が残っている。

延享4年(1747年)、金森頼錦は奏者番に任じられた。奏者番は大名や旗本らが将軍に拝謁する際の取次ぎや、法要や大名家の不幸に際して将軍の代参を行う等の役目を担っており、将軍の身近で仕事をこなすために高い能力が必要とされた。

そのため幕府内で有望株と目される若手大名が任命されるポストとされ、奏者番で有能であると認められれば、奏者番に寺社奉行の兼任を命じられ、その後大坂城代、京都所司代を経て若年寄そして老中へと出世していく道が開かれた。奏者番に任じられた頼錦の前途は明るいものと思われた。

だが、奏者番は職務上諸大名らとの広い交際を必要としまた社交も派手になるため多くの費用が必要となった。藩邸の再建を抑えた祖父の頼時とは異なり、藩主継承後まもなく藩邸の再建に取り掛かったり、盛んに詩碑の建立を行うなど、文人肌の金森頼錦の生活は元来派手な面があったが、奏者番就任後は衣服等が華美になっていくなど、ますますその派手さを増していった。