3「相良藩主時代の一揆の処理

元文2年(1737年)、従五位下・主殿頭になり、延享2年(1745年)には家重の将軍就任に伴って本丸に仕える。寛延元年(1748年)に1400石を加増され、宝暦5年(1755年)にはさらに3000石を加増され、その後家重によって宝暦8年(1758年)に起きた美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)に関する裁判にあたらせるために、御側御用取次から1万石の大名に取り立てられた。

郡上一揆(ぐじょういっき)は、江戸時代に美濃国郡上藩(現岐阜県郡上市)で宝暦年間に発生した大規模な一揆のことである。

郡上藩では延宝年間にも年貢引き上げに藩内部の路線対立が絡んだ一揆が発生したが、一般的には郡上藩主金森氏が改易され、老中、若年寄といった幕閣中枢部の失脚という異例の事態を招いた宝暦期の一揆を指す。

郡上一揆は、郡上藩がこれまでの年貢徴収法であった定免法から検見法に改め、更に農民らが新たに開発していた切添田畑を洗い出して新規課税を行うことにより増税を行うことを決定し、それをきっかけとして発生した。

極度の財政難に悩まされていた郡上藩では、一揆開始前から各種の賦課が増大しており、一揆開始当初は豪農層や庄屋など豊かな農民や、郡上郡内でも比較的豊かであった、郡上八幡中心部よりも長良川の下流域にあった村々が一揆を主導していた。

農民らの激しい抵抗に直面した郡上藩側はいったん検見法採用を引っ込めたものの、藩主金森頼錦の縁戚関係を頼るなどして、幕領である美濃郡代の代官から改めて郡上藩の検見法採用を命じたことにより一揆が再燃した。

しかし藩側の弾圧や懐柔などで庄屋など豊かな農民層の多くは一揆から脱落し、その後は中農、貧農が運動の主体となる。一揆勢は藩主への請願を行い、更には藩主の弟にとりなしを依頼するが、郡上藩側からは弾圧された。また一揆本体にも厳しい弾圧が加えられたこともあって一揆勢は弱体化し、郡上郡内は寝者と呼ばれる反一揆派が多くなった。このような困難な情勢下、一揆勢は老中への駕籠訴を決行するに至る]

老中への駕籠訴が受理されたことによって郡上一揆は幕府の法廷で審理されることになり、一揆勢は勢いを盛り返した。しかし当初進められていた審理は中断し、問題は解決の方向性が見られないまま長期化する。そのような中、一揆勢は組織を固め、藩の弾圧を避けるために郡上郡外の関に拠点を設け、闘争費用を地域ごとに分担し、献金によって賄うシステムを作りあげるなど、優れた組織を構築していく。

また郡上一揆と同時期に郡上藩の預地であった越前国大野郡石徹白で、野心家の神主石徹白豊前が郡上藩役人と結託して石徹白の支配権を確立しようとしたことが主因である石徹白騒動が発生し、郡上藩政は大混乱に陥った。

最終的に郡上一揆と石徹白騒動はともに目安箱への箱訴が行われ、時の将軍徳川家重が幕府中枢部関与の疑いを抱いたことにより、老中の指揮の下、寺社奉行を筆頭とする5名の御詮議懸りによって幕府評定所で裁判が行われることになった。

裁判の結果、郡上一揆の首謀者とされた農民らに厳罰が下されたが、一方領主であった郡上藩主の金森頼錦は改易となり、幕府高官であった老中、若年寄、大目付、勘定奉行らが免職となった。

江戸時代を通して百姓一揆の結果、他にこのような領主、幕府高官らの大量処罰が行われた例はない。

また将軍家重の意を受けて郡上宝暦騒動の解決に活躍した田沼意次が台頭する要因となり、年貢増収により幕府財政の健全化を図ろうとした勢力が衰退し、商業資本の利益への課税が推進されるようになった。

一揆の遠因

豊かではなかった郡上藩領

郡上一揆の舞台となった郡上藩は美濃国郡上郡と越前国大野郡にまたがった山間部の小藩であった。

美濃国郡上郡は三方を山に囲まれており、郡上郡の北東部を南北に吉田川が流れ、吉田川流域のことを明方筋、北西部を南北に上之保川(現在は一般的に長良川と呼ぶ)が流れ、上之保川流域を上之保筋と呼んだ。

そして吉田川、上之保川の合流地点から下流の郡上郡南部を下川筋、郡上八幡城周辺を小駄良筋と呼んだ。

郡上藩領全体の石高は元文元年7月18日(1736年8月24日)の金森頼錦が襲封した時点での記録によれば38,764石余りとされ、うち郡上郡内に当たる美濃領内は宝暦6年(1756年)の記録では23,293石となっている。

当時の郡上郡内では水田による稲作と畑作以外に、山間部では広く焼畑が行われヒエ、粟、大豆、蕎麦などが栽培されていたが、焼畑での生産力は限られたものであった。

江戸時代の郡上一揆発生当時に農民たちは郡上での農業について、郡上藩は白山に近く大日ヶ岳、鷲ヶ岳などという山々に囲まれているため、春は遅くまで雪が残る上に水が冷たく、秋は霜や降雪が早く、稲作りに困難が多い上に、山間部にあるのでイノシシ、シカ、サルが作物を荒らすことが頻繁であり、農業による生活が苦しいと訴えた文章が残っている。

延宝4年(1676年)にはこれまで一石につき三升であった口米が四升に増税されることが決められたため、豊かではない郡上藩領の農民は強く反発し、増税取り下げを要求した。

当時の郡上藩主遠藤常春は幼少であり、郡上藩内では増税派、反増税派の争いが激しさを増して藩政の主導権争いとリンクし、大混乱に陥った。そのような情勢下で農民たちは一揆を起こし、結局、喧嘩両成敗の形を取って増税派、反増税派双方の責任者クラスを処分したという事態が発生していた。

その上に、もともと生産性が高くなかった郡上郡内にも、時代の変革の波はやってきていた。

郡上一揆が発生した江戸時代の中期には商品経済が発達を見せ、米以外に養蚕やタバコなどといった換金性の高い生産活動に従事することが増えた。これは本業である稲作においても、鉄製の農機具や肥料等の購入代金を得るために現金収入を得る必要性が高まっており、この結果、郡上でも養蚕や紙漉きなどといった労力を要する現金収入手段を得られる豪農と、そのような余裕が無い貧農との農村社会内の分化が始まっていた。

またこのような社会情勢の変化に応じて、郡上藩は商品作物などに対する課税強化を進めていた。