2「田沼 意次の出自」(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。

出生

享保4年(1719年)7月27日、紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として江戸の本郷弓町の屋敷で生まれる。幼名は龍助。父・意行は紀州藩の足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近に登用され、吉宗が第8代将軍となると幕臣となり小身旗本となった。

吉宗は将軍就任にあたって紀州系の家臣を多数引きつれて幕臣とし、特に勘定方と将軍および子供たちの側近に配置して幕政を掌握したが、意次は紀州系幕臣の第2世代に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺跡600石を継いだ。

父・意行は息子を授かるために七面大明神に帰依し、そして意次が生まれた。そのため意次は七面大明神に感謝し、家紋を七曜星に変更したといわれている。

田沼 意行(たぬま おきゆき/もとゆき、貞享3年(1686年) - 享保19年12月18日(1735年1月11日))は、江戸時代中期の紀州藩士、幕臣(旗本)。田沼義房の子。田沼意次・意誠兄弟の父。

紀州藩の足軽の子。父義房(意房とも)は病にかかり、紀州藩の禄を離れて和歌山城下で静養することになったため、子の意行は田代七右衛門高近(紀州藩家臣)に養われることとなり、その娘婿となった。

紀州藩に仕官し、部屋住みで主税頭と称していたころの徳川吉宗に仕え、以降の側近であった。宝永2年に吉宗が紀州藩主となると奥小姓を務めた[1]。享保元年(1716年)に吉宗が将軍に就任した際に200人以上の紀州藩士を幕臣へ編入し、特に側近に配置したが、意行も将軍小姓として召されて、幕府旗本に列した。6月、将軍の小姓となり、29歳の時に300俵を受けた。

享保4年(1719年)7月27日、のちに幕府老中となる子の田沼意次が生まれる。享保9年(1724年)11月に従五位下主殿頭(小姓上位者の通例である諸大夫への任官)に叙任し、享保18年(1733年)9月には300石を与えられて、それまで支給されていた切米も石高に改められて、相模国高座大住郡に600石を賜った。享保19年(1734年)8月、小納戸頭取となったが、12月18日に死去。享年47。田沼家の家督は意次が継いだ。

吉宗の将軍就任によって紀州藩から江戸幕府へ組み入れられた同僚には、同期で家重付になった藪忠通(後に御側御用取次)や吉宗小姓になった岩本正房がいる[5]

足軽(あしがる)は、平安時代から江戸時代の日本に存在した歩兵の一種。

平安・鎌倉・室町時代

発生は平安時代とされ、検非違使の雑用役・戦闘予備員として従軍した「下部」が足軽の原型とされる。鎌倉時代中期頃まで、騎馬武者による一騎討ちを原則としたことから、足軽は従者や運搬などの兵站や土木作業に従事させられることが多かった。

南北朝時代に悪党の活動が活発化し下克上の風潮が流行すると、伝統的な戦闘形態は個人戦から集団戦へと変化し始め、足軽の活躍の場は土一揆・国一揆にも広まった。

応仁の乱では足軽集団が奇襲戦力として利用されたが、足軽は忠誠心に乏しく無秩序でしばしば暴徒化し、多くの社寺、商店等が軒を連ねる京都に跋扈し暴行・略奪をほしいままにすることもあった。

応仁の乱時、東軍の足軽(疾足)300余人が宇治神社を参詣する姿を人々が目撃したものとして、「手には長矛・強弓を持ち、頭には金色の兜や竹の皮の笠、赤毛など派手な被り物をかぶり、冬だというのに平気で肌をあらわにしていた」という。

一方で、雲泉太極の『碧山日録』には、「東陣に精兵の徒300人あり、足軽と号す。甲(かぶと)を擐せず、矛をとらず、ただ一剣をもって敵軍に突入す」と記され、兵装に統一性がなかった事がわかる。

『真如堂縁起』には、足軽達が真如堂を略奪している姿が描かれているが、兜をつけず、胴具は身につけているものの下半身は褌一枚の者、半裸の者など無頼の姿である。

また、足軽を雇ったのは大名といった武家に限らず、東寺など寺社勢力も自衛のために足軽を雇った[11]。東国では太田道灌が「足軽軍法」という名で活用する[12]が、足軽を直属軍に編成した足軽戦法の祖とされる。

戦国時代

これまで足軽は戦闘の主役ではなかったが、戦国時代を迎え集団戦が本格化・大規模化していくと、訓練された長槍・弓・鉄砲の足軽隊が組織され備の主要な部隊として活躍するようになり、足軽の兵力が戦を大きく分けると言われるまでとなった。

戦国時代後期には地位も向上して足軽大将の家禄は、200石から500石程度で中級の武士として認められる存在になった。兵卒の身分は依然として武士と農民の間に位置して低かったが、功を認められれば侍や特異な例ではあるが豊臣秀吉のように大名にまで出世する者もあった。

戦国期には歩兵の大集団による集団戦が確立されており、足軽の兵装もそれに沿ったものになっていた。一般的には皮革、あるいは和紙を漆でかためた陣傘(後に鉄板を切り抜き笠状に形成したものにかわった。)、鉄の胴鎧、籠手、陣羽織を装着し、そのほか水筒、鼻紙、布にくるんだ米など(例:糒、握り飯、芋がら縄)を携帯していた。

胴鎧に関しては、稀に和紙や皮革、竹でできたものも見ることができるが、現存しているのはほとんどが重量4㎏前後の鉄製のものである。

足軽部隊は、槍組足軽、弓足軽、鉄砲足軽などに分類され、多くは集団で隊を編制して小頭の指揮に従った。『雑兵物語』で詳しく当時の生活や操典、心得などを知ることができる。