「田沼意次の群像」

1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・2

2、 「田沼意次の出自」・・・・・・・・・・・・・・・3

3、 「相良藩主時代の一揆処理」・・・・・・・・・・・31

4、 「御側用人から破竹の勢い」・・・・・・・・・・・68

5、 「田沼全盛期時代」・・・・・・・・・・・・・・・78

6、 「意次の失政で農民の疲弊」・・・・・・・・・・・102

7、 「田沼政治の功績」・・・・・・・・・・・・・・・112

8、 「意次の凋落と最期」・・・・・・・・・・・・・・122

9、 「田沼意次の人物像」・・・・・・・・・・・・・・127

10、「田沼意次の人脈」・・・・・・・・・・・・・・・136

11、「株仲間の推奨」・・・・・・・・・・・・・・・・140

12、「蝦夷地開発」・・・・・・・・・・・・・・・・・143

13、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・151

 

 

 

1、「田沼意次」(1720~1788)江戸幕府の老中。幼名龍助、のち主殿頭。徳川吉宗の宗家継統に随従した新参幕臣の田沼意行(吉宗の小姓)の長子で、父の兼務する江戸城内田安御用屋敷で生まれる(幕府へは1719年生まれと届ける)父の縁故で吉宗の世子家重の小姓に召しだされ、1735年(享保20)父の死後家督を継ぎ、主殿頭に叙任。9代家重の時代に本丸小姓から御用取次へと昇進し、1758年(宝暦8)美濃郡上藩法歴騒動に吟味し際し評定所出座を家重に命じられた折、万石に列した。家重の信頼が厚く、家治の代の格別の恩寵も家重の遺言によるもので、目を見張る昇進を遂げる。1767年(明和4)には側用人に進み、2万石に加増、遠江相良にに筑城を許され城主となった。1769年老中格、1772年(安永元)には老中に進み、合わせ7度の加封で5万7000石を領した。明和・永安~天明期(1764~1789)の幕政のに参画し、その時期を「田沼時代」という称され、権勢を振るったといわれる。例えば「田沼意次時代」の重要な幕府経済対策が明和・永安期に実施されているので、これらをすべて田沼の政治と結びつける考えがある。しかしこの時期の政治の主導権は老中首座の松平武元にあった。経済政策の実権は勝手掛老中にあり、武元が首座として兼務していた。また松平忠恒が勝手係若年寄として武元を補佐して入り、この両人が同時期の幕府経済政策を遂行して,意次の介入する余地はなかった。意次の全盛期は天明年間(1781~1789)で、特に老中就任以前の意次は政治の表舞台では幕政に関与していない。むしろ御用取次、御用人といった、将軍側近をとしての立場を利用したに過ぎない、フィクサーとしての役割を演じた。田沼時代を賄賂政治として言われるのも、すでに前前代の吉宗政権の末期からその兆候はあった。天明期(田沼全盛期)田沼政権の経済政策ぼ展開に伴い、その弊害が一層顕著になったのは事実である。1786年8月、家治が急病死した。その直後、将軍の小姓、小納戸らがクデターめいた行動に出て、意次は老中を総辞職し失脚する政変が起こり、その後意次の政治生命は終わった。将軍も家斉に代わり、意次は蟄居のの上相次ぐ処罰を受けた。孫の意明は家督継いだが、1万石の減封され、陸奥国下村に転封となった。1788年7月、意次は失意のまま死去した。その後の相次ぐ田沼意次の失政の非難は後々の世にまで語り継がれる。