二十五、「魚津城の戦い」

 魚津城の戦い(うおづじょうのたたかい)は、天正十年(1582)に行われた柴田勝家を総大将とする織田信長軍と上杉景勝軍との戦い。上杉家(米沢藩)中条家文書・魚津在城衆12名連署書状を根拠とする 。

 上杉氏織田氏は甲斐武田氏や相模後北条氏に対して同盟関係にあったが天正四年(1576)に織田氏の当敵である毛利氏のもとに身を寄せていた将軍足利義昭が反信長勢力を糾合すると上杉謙信は同じく織田氏の当敵である本願寺と和睦し、同盟は手切となり敵対関係に入った。

 天正六年に謙信が死去すると上杉家では御館の乱を経て上杉景勝が当主となり、景勝は信長の当敵である甲斐武田氏と同盟し(甲越同盟)、上杉・織田氏は引き続き敵対関係となった。

 謙信死後、織田信長は北陸地方の支配を目論んだとされ、天正九年(1581)に起こった荒川の合戦以後は、事実上、織田方に仕えているが上杉方に内通していた願海寺城主・寺崎盛永木舟城主・石黒成綱などが信長によって次々と粛清され、北陸地方における織田氏方の基盤が作られていった。

 天正十年(1582)二月に織田勢は甲斐武田氏を滅ぼし、同年三月に織田軍は魚津城を囲んだが、背後で小島職鎮が上杉景勝と手を組み、神保長住富山城を急襲し城を乗っ取ったため、天正十年(1582)三月十一日に柴田勝家・佐々成政前田利家佐久間盛政は魚津攻めを中止し富山城を攻めさせ奪還した。その後四万ともいわれる織田軍は魚津城への攻撃を再開し、上杉氏も三千八百ともいう兵を挙げ立てこもった。

 包囲された上杉軍部将の中条景泰はすぐに上杉景勝に救援を求めるが、越後国に接する信濃国及び上野国には、武田氏を滅亡させた織田軍がまだ駐屯しており、さらに越後・新発田城主の新発田重家が景勝の領内侵攻の姿勢をとったため兵を出せなかった。

 その代わり能登国の諸将、および赤田城主斎藤朝信松倉城上条政繁を派遣した。そして景勝は天正十年(1582)五月四日に、自ら軍勢を率い春日山城を出発、五月十九日には魚津城東側の天神山城に入り後詰の陣を張った。一方織田軍は五月六日に二の丸を占拠したため、景勝は戦を仕掛けられず、信 濃国・海津城森長可や上野国・厩橋城滝川一益が越後侵入の態勢に入ったため、五月二七日に退陣を決断した。

 その後、上杉軍は篭城戦を展開し両軍が決死の攻防戦を繰り広げたが、開戦から三ヶ月後の六月三日に落城を悟った山本寺孝長吉江宗信吉江景資吉江資堅寺島長資蓼沼泰重安部政吉石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊中条景泰竹俣慶綱ら上杉方の守将十三人が自刃して果て落城、織田軍が勝利した(落城の日には、既に織田信長は京で横死していたことに注意)。

 勝利に沸く織田勢であったが、六月二日に信長が本能寺明智光秀により討たれた(本能寺の変)との報に接し、主君の死に動揺した織田勢は四散した。空城となった魚津城には須田満親を中心とする上杉勢が入り、越中東部における失地を奪還したが、清洲会議で越中を安堵された佐々成政に再び攻められ、城を明け渡した。上杉氏織田氏に加賀能登越中を奪われ、越後に押し込められた。

「魚津在城十三将」

中条景泰 - 竹俣慶綱 - 吉江信景 - 寺嶋長資 - 蓼沼泰重 - 藤丸勝俊 - 亀田長乗 - 若林家吉 - 石口広宗 - 安部政吉 - 吉江宗信 - 山本寺景長 - (吉江景資

中条、竹俣、吉江信景は上杉謙信の代からの側近。藤丸、亀田、若林らは、元加賀一向宗門徒の国衆で、謙信の加賀侵攻に伴い上杉氏の被官となった者たちで、若林家吉は天正二年七月に謙信が加賀に侵攻した際の一揆側の主将・若林長門守の一族と考えられる。 上杉一門からは山本寺も加わっている。

 吉江景資の名は「魚津在城衆十二名連署状」にはないが、同時期に戦死したと考えられており、ここでは含めることとした。なお、中条と蓼沼は第1廓を守備していたことが史料から判っている。

 

二十六、「本能寺の変」

 信長は四国長宗我部元親攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。

 また北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。

 上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。

 五月十五日、駿河国加増の礼と甲州征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた(家康謀殺のために招いたという説もある)。

 そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から十七日にわたって家康を手厚くもてなした。

 家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。

 後世、『明智軍記』などによって江戸時代以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓森成利(蘭丸)に命じて光秀の頭をはたかせた、としている。

 五月二九日、信長は中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、六月二日に本能寺を襲撃する。

 この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが『本城惣右衛門覚書』からもうかがえる。

 百人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自らを手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てた。享年四十九(満四十八歳没)。

 光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまった、あるいは損傷が激しく誰の遺体か確認できなかったためと考えられる。

  ゆえに、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説が後世に流布した。実際事件当時も信長の生存説が京洛に流れており、緊急に光秀と対立することとなった羽柴秀吉はこの噂を利用し、味方を増やそうとしている。

 本能寺の変では光秀本人の動機や、「黒幕の存在」について、色々な説が流れており、後者には徳川家康説、秀吉説、天皇説、堺の商人説などがある。

波瀾万丈の類まれなる天下無双の織田信長と言うう知将は、天下取りに頂点に駆け登った。

 だがその終焉は余りにも儚く空しい結末で人生を閉じた。

非情にも、多くの人々の命を虫けらの如く奪い去った。

その功罪を語る時、戦国と言う有史以来の下剋上の不原則の時代で一長一短に語り尽くすことが出来ない。                了