二十三、、「高野山包囲」

 天正九年(1581)、高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる。

 『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した(高野山側は、足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたため討った、としている)。

 一方、『高野春秋』では前年八月に高野山宗徒と荒木村重の残党との関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付け、続いて九月二十一日に一揆に加わった高野聖らを捕縛し入牢あるいは殺害した。

 このため天正九年(1581)一月、根来寺と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成し、信長に反抗した。

 信長は一族の和泉岸和田城主・織田信張を総大将に任命して高野山攻めを発令。一月三十日には高野聖一三三三名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑した。  

 十月二日、信長は堀秀政の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、三五〇名を捕虜とした。

 十月五日には高野山七口から筒井順慶の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った。

 天正十年(1582)に入ると信長は甲州征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。

 武田家滅亡後の四月、信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した。信孝は高野山に攻撃を加えて百三十一名の高僧と多数の宗徒を殺害した。しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了し、比叡山延暦寺と同様の焼き討ちにあう危機を免れた。

 

二十四、「甲州征伐」

天正九年(1581)五月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻し、同国の過半を支配下に置いた。七月には越中木舟城主の石黒成綱を丹羽長秀に命じて近江で誅殺し、越中願海寺城主・寺崎盛永へも切腹を命じた。

 三月二三日には高天神城を奪回し、武田勝頼を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。

 などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。

 天正十年(1582)武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。二月三日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から徳川家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。

 信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は十万人余に上った。木曽軍の先導で織田軍は二月二日に一万五千人が諏訪上の原に進出する。

 武田軍では、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに南信濃の松尾城主・小笠原信嶺が二月十四日に織田軍に投降する。

 さらに織田長益、織田信次稲葉貞通ら織田軍が深志城馬場昌房軍と戦い、これを開城させる。駿河江尻城主・穴山信君も徳川家康に投降して徳川軍を先導しながら駿河国から富士川を遡って甲斐国に入国する。

 このように武田軍は先を争うように連合軍に降伏し、組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。唯一、武田軍が果敢に抵抗したのは仁科盛信が籠もった信濃高遠城だけであるが、三月二日に信忠率いる織田軍の攻撃を受けて落城し、四百余の首級が信長の許に送られた。

 この間、勝頼は諏訪に在陣していたが、連合軍の勢いの前に諏訪を引き払って甲斐国新府に戻る。

 しかし穴山らの裏切り、信濃諸城の落城という形勢を受けて新府城を放棄し、城に火を放って勝沼城に入った。

 織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が甲州征伐に出陣した三月八日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、三月十一日には甲斐国都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を自刃させ、ここに武田氏は滅亡した。

 この時、俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られた。

 信長は三月十三日、岩村城から弥羽根に進み、三月十四日に勝頼らの首級を実検する。三月十九日、高遠から諏訪の法華寺に入り、三月二十日に木曽義昌と会見して信濃二郡を、穴山信君にも会見して甲斐国の旧領を安堵した。

 三月二三日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の上野国と信濃2郡を与え、関東管領に任命して厩橋城に駐留させた。

 三月二九日、穴山領を除く甲斐国を河尻秀隆に与え、駿河国は徳川家康に、北信濃4郡は森長可に与えた。

 南信濃は毛利秀頼に与えられた。この時、信長は旧武田領に国掟を発し、関所の撤廃や奉公、所領の境目に関する事を定めている。

 四月十日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた。四月十二日、駿河興国寺城に入城し、北条氏政による接待を受ける。

 さらに江尻城、四月十四日に田中城に入城し、四月十六日に浜松城に入城した。浜松からは船で吉田城に至り、四月十九日に清洲城に入城。四月二十一日に安土城へ帰城した。

 信長による武田氏討伐は奥羽の大名たちに大きな影響を与えた。蘆名氏は五月に信長の許へ使者を派遣し「無二の忠誠」を誓った。

 また伊達輝宗の側近・遠藤基信が六月一日付けで佐竹義重に書状を遣わし、信長の「天下一統」のために奔走することを呼びかけるなど、信長への恭順の姿勢を明らかにしている。

「三職推任」

四月、正親町天皇は信長を太政大臣関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、五月に信長に伝えられた(三職推任問題)。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが、返答の内容は不明である。