天正七年(1579)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年九月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで十月、それまで毛利方であった備前国の宇喜多直家が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。

 十一月、信長は織田家の京屋敷・二条新御所を、皇太子である誠仁親王に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・邦慶親王猶子として、この邦慶親王も二条新御所に移っている。

この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の十二か条の乱行、信康生母・築山殿の武田氏への内通などである。

 徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させたという。

 だが、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説も出ている(松平信康#信康自刃事件についての項を参照)。

 また伊勢国の出城・丸山城構築を伊賀国国人に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し、家老柘植保重植田光次に討ち取られるなど敗退を喫した。信長は信雄を厳しく叱責し、謹慎を命じた(第一次天正伊賀の乱)。

 天正八年(1580)一月、別所長治が切腹し、三木城が開城。三月十日、関東の北条氏政から従属の申し入れがあり、北条氏を織田政権の支配下に置いた。これにより信長の版図は東国にまで拡大した。

 四月には正親町天皇の勅命のもと本願寺も織田家に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、但馬国をも攻略した。八月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。

 天正九年(1581)には鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらに岩屋城を落として淡路国を攻略した。

 同年、信雄を総大将として四万の軍勢で伊賀十二人衆を倒して伊賀惣国一揆を滅ぼし、伊賀国は織田氏の領地となった。

 

 

 

 

二十二、「京都御馬揃え・左大臣推任」

 京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)は天正九年二月二八日(1581))、織田信長京都で行った大規模な観兵式・軍事パレードである。この馬揃えは京都内裏東にて行われた。丹羽長秀柴田勝家を始め、織田軍団の各軍を総動員する大規模なものだった。正親町天皇が招待され、近衛前久ら馬術に通じた公家にはパレードへの参加が許された。

 このパレードの目的は、天下布武を標榜する織田信長が、周辺大名を牽制し、力を誇示するためと考えられている。これにより、信長は京都の平和回復と織田家の天下掌握を内外に知らしめた。また、天皇や公家を招待した理由については、朝廷を威圧するためという説と、天皇側から査閲を希望したという説とがある。

 天正九年(1581)一月二三日、信長は明智光秀に京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した。

 この馬揃えは近衛前久ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の朝廷から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった。

 ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる。信長は天正九年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による。ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった。

 二月二八日、京都の内裏東の馬場にて大々的な馬揃えを行った(京都御馬揃え)。これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。

 『信長公記』では「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ…(中略)…あり難き次第にて上古末代の見物なり」とある。

 三月五日には再度、名馬五百余騎をもって信長は馬揃えを挙行した。このため、この京都御馬揃えは信長が正親町天皇に皇太子・誠仁親王への譲位を迫る軍事圧力だったとする見解もあり、洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になったという。

 三月七日、天皇は信長を左大臣に推任。三月九日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。

 朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。三月二四日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。だが四万月一日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。

 八月一日の八朔の祭りの際、信長は安土城下で馬揃えを挙行するが、これには近衛前久ら公家衆も参加する行列であり、安土が武家政権の中心である事を天下に公言するイベントとなった。