天正七年(1579)九月十六日、信雄は信長に相談もせず独断で八千の兵を率いて伊賀国に三方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた。伊賀衆の夜襲や松明を用いた撹乱作戦や地形を活かした奇襲などで、二~三日で信雄軍は多くの兵を失い 、伊勢へ敗走した。信雄軍は重臣の柘植保重を討たれる(鬼瘤峠の戦い)など被害は甚大で、侵攻は失敗に終わった。

 信雄が無断で伊賀に侵攻し、さらに敗戦したことを知った信長は激怒し、信雄を叱責した。信長が信雄に「親子の縁を切る」と書いた書状をしたためたというからその怒りは相当なものであったと考えられる。

 また、この信雄の敗戦を受け、信長は忍者に対し警戒心を抱き、後の第二次伊賀の乱へ繋がっていく。しかし信長はこの頃石山本願寺との抗争が激化し、伊賀国平定は後回しせざるを得なかった。

「第二次天正伊賀の乱」

 天正九年(1581)四月、上柘植の福地伊予守宗隆、河合村の耳須弥次郎具明の二人が安土城の信長の所に訪れ、伊賀攻略の際は道案内をすると申し出た。

 そして再び織田信雄を総大将に五万の兵で伊賀国に侵攻した。『信長公記』『多聞院日記』には九月三日に攻撃開始との記述があるが、『伊乱記』では九月二九日に六か所(伊勢地口から信雄、津田信澄、柘植口から丹羽長秀滝川一益、玉滝口から蒲生氏郷脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政多羅尾弘光が攻撃したと記述されている)同月六日より戦闘が開始された。

 伊賀衆は比自山城に参千五百人(非戦闘員含め一万人)、平楽寺(後の伊賀上野城)に千五百人で籠城した。伊賀衆は河原(あるいは比自山の裾野)で野営していた蒲生氏郷隊に夜襲を掛け、氏郷隊は寝込みを襲われ大敗した。筒井順慶隊にも夜襲を掛け、千兵を討ち取られた。

 これに怒った氏郷は平楽寺を攻撃し、退けられるが滝川一益の援軍を得て陥落させた。続く比自山城は難攻不落の要塞で、丹羽長秀らが幾度となく攻略しようとしたが、その都度敗退し、落とせなかった(比自山城の戦い、この時活躍した伊賀衆を比自山の七本槍という)。

 しかし、総攻撃の前日に全ての城兵は柏原城に逃亡した。その後、内応者が出た事もあり(伊賀衆は織田方の調略を受け、連携を欠いていた)、織田軍は各地で進撃し同月十一日にはほぼ伊賀国を制圧した。村や寺院は焼き払われ、住民は殺害された(平楽寺では僧侶七百人余りが斬首、伊賀全体では九万の人口の内非戦闘員含む三万余が殺害された)。

 奈良の大倉五郎次という申楽太夫が柏原城に来て、和睦の仲介に入り、惣名代として滝野吉政が二八日早朝に信雄に会って、城兵の人命保護を条件に和睦を行い、城を開けた。

『信長公記』ではこの停戦時期を九月十一日としている。『多聞院日記』では「十七日、教浄先陳ヨリ帰、伊賀一円落着」としており、日程のずれはあるが、当時の伝聞を集めた記録として信頼性は高い。

この柏原城が開城した時点をもって天正伊賀の乱は終わりを告げた。残党は徹底的に捕縛され殺されたが、多くの指揮官は他国へ逃げ、ほとぼりが冷めた頃に帰国した。

 同年十月九日には信長自身が伊賀国に視察に訪れている。信長は阿拝郡伊賀郡名張郡を滝川雄利に、山田郡織田信兼にそれぞれ与えた。

 

二十、、「信長包囲網」

「長篠の戦い」

 信長包囲網の打破後、信長や家康は甲斐国の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。

 天正三年(1575)四月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、一万五千人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。

 しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の五月十二日に信長は三万人の軍を率いて岐阜から出陣し、五月十七日に三河国の野田で徳川軍八千人と合流する。

 三万八千人に増大した織田・徳川連合軍は五月十六日、設楽原に陣を布いた。そして五月二十一日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。 

 信長は設楽原決戦においては五人の奉行に千丁余りの火縄銃を用いた射撃を行わせるなどし、武田軍に勝利する。

 六月二七日、相国寺に上洛した信長は天台宗真言宗の争論のことを知り、公家の中から五人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた(絹衣相論を参照)。

 七月三日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。

 天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、荒木村重に摂津守、羽柴秀吉に筑前守の官位と姓を与えた。

「越前侵攻」

 この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。

 門徒達は天正三年(1575)一月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。

これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の八月、越前国に行軍した。  

 内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、一二二五〇人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐された。

 越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。

「右近衛大将就任・天下人公認」

 天正三年(1575)十一月四日、信長は権大納言に任じられる、また、十一月七日には征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される右近衛大将を兼任する。信長は右近衛大将就任にあたり、御所にて公卿を集め、 

室町将軍家の将軍就任式に倣った儀礼(陣座)を挙行させた。。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた。

 これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものとみられる。また、この任官によって、信長は足利義昭の追放後もその子・義尋を擁する形で室町幕府体制(=公武統一政権)を維持しようとした政治路線を放棄して、この体制を否定する方向(=「倒幕」)へと転換したとする見方もある。

 また、義昭の実父である足利義晴が息子の義輝に将軍職を譲った際に権大納言と右近衛大将を兼ねて「大御所」として後見した(現任の将軍であった義輝には実権はなかった)先例があり、信長が「大御所」義晴の先例に倣おうとしたとする解釈もある。

 ただし、伝統的な室町将軍の呼称であった「室町殿」「公方様」「御所様」「武家」を信長に対して用いた例は無く、朝廷では信長を従来の足利将軍とは別個の権力とみなしていた。

 同日、嫡子の信忠は秋田城介鎮守府将軍になるための前官)に、次男の信雄は左近衛中将に任官している。