また、信長も別箇に開戦の経緯を知る近衛前久を派遣して本願寺側との妥協点を探った。以上の経緯から「勅命講和」という方式での和議を提案したのは信長側であったが、実際の講和申し入れは本願寺側からあったものと言える。

 閏三月七日、本願寺は信長に誓紙の筆本を提出し、信長と本願寺は三度目の講和を果たした。条件は顕如ら門徒の大坂退城など以下の通り。


一 惣赦免事
一 天王寺北城先近衛殿人数入替、大坂退城候刻、大子塚をも引取、今度使衆を可入置事
一 人質為気仕可遣之事
一 往還末寺如先々事
一 加州二郡(江沼・能美)、大坂退城以後、於無如在者可返付事
一 月切者七月盆前可究事
一 花熊・尼崎、大坂退城之刻可渡事
  三月十七日 朱印(信長)
(「本願寺史」本願寺史料研究所編纂 浄土真宗本願寺派<西本願寺>発行)

 この他『信長公記』には退城の期限は七月二十日だったと書かれている。また、講和条約に署名したのは顕如の三人の側近下間頼廉・下間頼龍・下間仲孝だった。

 四月九日、顕如は石山本願寺を嫡子で新門跡の教如に渡し、紀伊鷺森御坊に退去した。しかし雑賀や淡路の門徒は石山に届けられる兵糧で妻子を養っていたため、この地を離れるとたちまち窮乏してしまうと不安を募らせ、信長に抵抗を続けるべきと教如に具申し、教如もこれに同調した。故に、顕如が石山を去った後も石山は信長に抵抗する教如勢が占拠し続けた。

 七月二日、顕如は3人の使者を遣わして信長に御礼を行い、信長もそれに合わせて顕如に御礼を行った。これと前後して荒木村重が花隈城の戦いに破れ去るなどの情勢悪化や近衛前久の再度の説得工作によって石山の受け渡しを教如派も受け入れて雑賀に退去し、八月二日に石山は信長のものとなった。

 引き渡し直後に石山本願寺は出火し、三日三晩燃え続けた火は石山本願寺を完全に焼き尽くした。『信長公記』では松明の火が風で燃え移ったとされている。『多門院日記』には、「退去を快しとしなかった教如方が火を付けた」と噂されたとある。

 八月、佐久間信盛は信長から折檻状を突きつけられて織田家から追放されたが、理由の一つに石山本願寺を包囲するだけで積極的に戦を仕掛けなかったことを挙げている。

 また信長と石山本願寺の交渉の影には森成利(森蘭丸)の母の妙向尼がいた。妙向尼は和睦成立に奔走し、本願寺の危機を救った。森成利を通じて情報を得た妙向尼は信長と直接、面会し、直談判をして信長の石山本願寺の追撃を断念させた。

 信長は当時、本願寺との和睦に際して「金山城下に浄土真宗の寺院を建立、子息(妙向尼の子)の一人を出家」させることを条件に和睦を提示した。

 顕如退去後に教如が講和に反して石山を占拠したため、本願寺は顕如と教如の二派に分かれ、顕如は誓約違反を問われることになってしまった。結局、教如も石山を出ることで内紛には決着がつき、

 天正十年(1582)六月の本能寺の変の信長の死の直後に顕如と教如は朝廷の仲介により和解するが、顕如は内紛の核となった教如を廃嫡し三男の准如を嫡子と定めた。

 文禄元年(1592)十一月、顕如が死没すると豊臣秀吉の命で教如が本願寺を継ぐが、如春(顕如の妻、教如・准如らの母)らが顕如の遺志にもとづき秀吉に働きかけたため、翌年に教如は隠居させられ弟の准如が跡を継いだ。しかしその後も教如は大坂の大谷本願寺(難波御堂、現在の真宗大谷派難波別院)を本拠地として、各地の門徒へ本尊の下付などの法主としての活動を続けたため、この時点で本願寺は准如を支持する派と教如を支持する派に事実上分裂した。

 慶長七年(1602)、教如は以前より昵懇だった徳川家康による土地の寄進を受け、京都の七条烏丸に東本願寺を建てたために、本願寺は東西に分かれることとなった。

 序文で述べているが、石山合戦は当時最大の宗教一揆でもあったため、それが終結したことで各地の宗教一揆は激減することになった。

 講和条件の「如在無きに於いては(=従順でいるならば)加賀江沼・能美二郡を本願寺に返付する」という条項については、実現されることはなかった。というのは教如が抗戦を呼びかけたため、加賀一向一揆と信長の重臣柴田勝家の交戦は続いたからである。信長と顕如は停戦を命じたものの戦闘は続き、天正八年十一月十七日に柴田勝家に諸将を討ち取られ、天正十年(1582)三月には吉野谷の一揆が鎮圧されて「百姓の持ちたる国」は終焉を迎えた。

 ちなみに全国各地の真宗寺院の記録には、誇らしげな武勇談・忠節談はあっても、不法行為をしてしまったという罪の意識や反省の弁は皆無であり、門徒たちの「正義の戦いであった」という意識が明確に投影されている。

 

十九、「天正伊賀の乱」

  天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)は、伊賀国で起こった織田氏伊賀惣国一揆との戦いの総称である。天正六年(1578)から天正七年(1579)の戦を第一次、天正九年(1581)の戦を第二次とし区別する。

 北畠家養子となっていた織田信長の次男織田信雄は、天正四年(1576)に北畠具教ら北畠一族を三瀬の変で暗殺し伊勢国を掌握すると、次は伊賀国の領国化を狙っていた。

 天正六年(1578)二月、伊賀国の郷士の日奈知城主・下山平兵衛(下山甲斐守)が信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。信雄は同年三月に滝川雄利に北畠具教が隠居城として築城した丸山城の修築を命じた。

 これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった。この時の様子が、三層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は九回折れているなど、規模壮大な城であったと記されている。

 すぐさま伊賀郷士十一名が平楽寺に集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同年十月二五日に集結した忍者たちが総攻撃を開始した。不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。『伊乱記』には、「伊賀衆は雄利を討ち取ったと喜んだ。しかし雄利が無事であることを知って落胆した」とある。