十五、「長島一向一揆の戦い」②

 天正元年(1573)八月に浅井長政・朝倉義景を滅亡させた織田家であたが、九月にはの文がは二度目の長島攻めを各将に通達した。

 今回は出陣の前の反省から水路を抑えるためには次男北畠具豊(織田信雄)に命じて伊勢大湊での船の調達も事前に命じていたが、こちら大湊の会合衆が要求を渋り、難航していた。

 信長からも北畠具教・具房親子を通じて会合衆に働きかけたがこれも不調に終わった。それでも織田軍は予定通り九月中に二度目の長島攻撃を敢行した。

九月二四日、信長をはじめとする数万の軍勢が北伊勢に出陣した、二五日に大田城に到着した。二十六日には一揆勢の篭る西別府城を佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らが攻め立てて、陥落させた。

 柴田勝家・滝川一益らも坂井城を攻略し、十月六日には降伏させ、二人は続けて近藤城を金堀衆を使って攻め、退けた。

 一〇月八日には信長は本陣を東別所に移動し、この時には萱生城・伊坂城の春日部氏、赤堀城の赤堀氏、桑部南城の大儀須氏、千種城の千種氏、長深城の富永氏などが相次いで降伏し、信長に人質を送って恭順の意を表した。

 しかし白山城の中島将監は顔を見せなかったたため、佐久間・蜂屋・丹羽・羽柴の四人に命じて金堀を攻めさせ退散させた。

  ただ、大湊の船の調達作業はこの時期に至っても進捗状況が芳しくなく、今回は長島への直接攻撃は見送らざるを得なかった。

 信長は北伊勢の諸城の中で最後まで抵抗する中島将監の白山城を佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに攻めさせて落城させると、十月二十五日には矢田城に滝川一益を入れ美濃へと帰陣を開始した。

「一揆勢の追撃 」

 退く最中、門徒側が多芸山で待ち伏せし、またもや弓・鉄砲で攻撃を仕掛けてきた。中には伊賀・甲賀の兵もいたという。信長は林通政を殿軍としたが、折悪く雨が振り出して火縄銃が使用不可となってしまい、白兵戦となった。

 林通政が討ち取られ、また正午過ぎからの風雨で人足がいくらか凍え死にするなどの損害を出したが、通政や毛屋猪介らの部隊の奮戦によって夜に信長は一揆勢を振り切って大垣城へと到着。十月二十六日には岐阜へと帰還した。

「湊の取り締まり 」

 大湊での船の調達が失敗した背景には織田家より長島に肩入れをする会合衆の姿勢にも要因があった。こうした中で大湊が長島の将、日根野弘就の要請に応じて足弱衆(女や子供)の運搬のため船を出していたことが判明した。

 この事実を知った信長は激怒し、「曲事であるので(日根野に与した)船主共を必ず成敗すること」を命じ、山田三方の福島親子が処刑された。信長は福島親子の処刑によって「長島に与すことは死罪に値する重罪である」と伊勢の船主達に知らしめ、長島への人員・物資補充の動きを強く牽制した。

「第三次長島侵攻 」

 天正二年(1574)六月二十三日、信長は美濃から尾張国津島に移り三度目の長島攻めのため大動員令を発し、織田領の全域から兵を集め、七月には陣容が固まり陸と海からの長島への侵攻作戦が開始された。

 陸からは東の市江口から織田信忠の部隊、西の賀鳥口からは柴田勝家の部隊、中央の早尾口からは信長本隊の三隊が、さらに海からは九鬼嘉隆などが動員され、畿内で政務にあたる明智光秀越前方面の抑えに残された羽柴秀吉など一部を除いて主要な将のほとんどが参陣し、七~八万という織田家でも過去に例を見ない大軍が長島攻略に注ぎ込まれた。主な陣容は以下の通り。

「市江口」織田信忠、長野信包織田秀成織田長利織田信成織田信次斎藤利治簗田広正森長可坂井越中守池田恒興、長谷川与次、山田勝盛、梶原景久、和田定利、中嶋豊後守、関成政佐藤秀方市橋伝左衛門、塚本小大膳

「賀鳥口」柴田勝家、佐久間信盛、稲葉良通、稲葉貞通、蜂屋頼隆

「早尾口」信長、羽柴秀長、浅井政貞、丹羽長秀、氏家直通安藤守就、飯沼長継、不破光治、不破勝光、丸毛長照、丸毛兼利佐々成政、市橋長利、前田利家中条家忠河尻秀隆織田信広飯尾尚清

「水軍」九鬼嘉隆、滝川一益、伊藤実信水野守隆島田秀満林秀貞、北畠具豊(織田信雄)、佐治信方

※上記の他にも参陣武将は多数存在し神戸信孝水野信元らの参陣も信長公記などで確認できる。

 七月十四日、まず陸から攻める三部隊が兵を進め、賀鳥口の部隊が松之木の対岸の守備を固めていた一揆勢を一蹴した。

 同日中に早尾口の織田本隊も小木江村を固めていた一揆勢を破り、篠橋砦を羽柴秀長・浅井政貞に攻めさせ、こだみ崎に船を集めて堤上で織田軍を迎え討とうとした一揆勢も丹羽長秀が撃破し、前ヶ須・海老江島・加路戸・鯏浦島の一揆拠点を焼き払って五明(現愛知県弥富市五明)へと移動しここに野営した。

 翌七月十五日には九鬼嘉隆の安宅船を先頭とした大船団が到着。蟹江・荒子・熱田・大高・木多・寺本・大野・常滑・野間・内海・桑名・白子・平尾・高松・阿濃津・楠・細頸など尾張から集められた兵を乗せて一揆を攻め立てた。

 また、織田信雄も垂水・鳥屋尾・大東・小作・田丸・坂奈井など伊勢から集められた兵を大船に乗せて到着し、長島を囲む大河は織田軍の軍船で埋め尽くされた。

 海陸、東西南北四方からの織田軍の猛攻を受けた諸砦は次々と落とされ、一揆衆は長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の五つの城に逃げ込んだ。

 大鳥居城・篠橋城は、織田信雄・信孝らに大鉄砲で砲撃され、降伏を申し出てきたが、信長は断固として許さず兵糧攻めにしようとした。八月二日夜中、 大鳥居城の者たちが城を抜け出したところを攻撃して男女千人ほどを討ち取り、大鳥居城は陥落した。

 八月十二日、篠橋城の者たちが「長島城で織田に通じる」と約束してきたので、長島城へと追い入れた。しかし長島には何の動きも起こらず、籠城戦が続いて、城中では多くの者が餓死した。

 兵糧攻めに耐えきれなくなった長島城の者たちは、九月二十九日、降伏を申し出て長島から船で退去しようとしたが、信長は許さず鉄砲で攻撃し、この時に顕忍や下間頼旦を含む門徒衆多数が射殺、あるいは斬り捨てられた。

 これに怒った一揆衆八百余が、織田軍の手薄な箇所へ、裸になって抜刀するという捨て身で反撃を仕掛けた。フロイス日本史によれば、これは伏兵だったという。

 これによって信長の庶兄である織田信広や弟の織田秀成など、多くの織田一族が戦死し、七百~八百人(信長公記)または千人(フロイス日本史)ほどの被害が出た。ここで包囲を突破した者は、無人の陣小屋で仕度を整え、多芸山や北伊勢方面経由で大坂へと逃亡した。

 この失態を受けて、信長は、残る屋長島・中江の二城は幾重にも柵で囲み、火攻めにした。城中の二万の男女が焼け死んだという。同日、信長は岐阜に向け帰陣した。

 こうして、門徒による長島輪中の自治領は完全に崩壊、長島城は滝川一益に与えられた。