十二、「長島一向一揆の戦い」①

 長島は元々「七島」と言って、尾張国と伊勢国の境界線にある木曽川、揖斐川、長良川の河口付近に輪中地帯を指し、幾筋にも枝分かれをした木曽川の流れによって陸地から隔絶された地域で、伊勢国桑名郡にあったが、信長公記には「尾張河内長島」とも呼ばれ、認識されていた。

 文亀元年(1501)杉江の地に願証寺が創建されて、蓮如の六男・蓮淳が住職になった。

 本願寺門徒は地元の国人領主層を取り込み、地域を支配し、後に長島の周りに防衛のための中江砦・大鳥居砦などを徐々に増設し武装化していった。

 付近には願証寺をはじめ数十の寺院・道場が点在し、本願寺勢力が一種の自治勢力を形成していった。

 ここの実力者の服部友貞は「河内一郡は二の江の坊主服部左京進、横領して御手を属さず」狭間の戦いには今川義元に呼応して信長に攻撃をしようとしている。

 信長は尾張を統一したとされているがその時点で信長は一度も支配していなかった。

 永禄一〇年(1567)信長は稲葉城を落として美濃国を平定したが、城を落とされても斎藤龍興は「河内長島」に逃げ込んだという。

 直後、信長は龍興を追って伊勢国へ侵攻、長島を攻撃をした。その上で北伊勢の在地領主を服従させた。

この年の一一月に顕如は信長に美濃・伊勢を平定したとして祝う書状を送っており、まだその時点で、信長と敵対関係ではなかった。

 元亀元年(1570)九月、本願寺の反信長蜂起(石山合戦)に伴って、当時の願証寺住持証意や本願寺の坊官下間頼成の檄文によって長島でも門徒が一斉に蜂起した。また、これに呼応して「北伊勢四十八家」と呼ばれて北伊勢の小豪族も織田家に反旗を翻し一揆に加担した。

 大坂より派遣された坊官の下間頼旦らにひきいられた数万にも及ぶ一揆衆は、伊藤氏が城主を勤める長島城攻め落とした城を奪うと、続けて十一月には織田信興を守る尾張・小木江城を攻撃した。

 信興を自害させた城を奪取させ、さらに桑名城の滝川一益を敗走させた。この頃、近江国で浅井・朝倉軍と対峙しており(志賀の陣)救援に赴くことが出来なかった。

 同年十二月、信長は浅井・朝倉軍と和睦し、兵を引いた。

 

※北勢四十八家(ほくせいしじゅうはちけ)は、伊勢国北部の北伊勢地域(特に三重県四日市市の周辺の北勢地域)に勢力をもった小規模の城主・豪族の集合体の呼称である。全部で五三の家系があり、四十八家より五家多い。途中で戦国時代の乱世による城主の興亡での城主の入替や、同名の家柄の別家系があり、正確な北勢四十八家は不明である。

 北伊勢の室町時代から戦国時代の歴史研究で必ず語られるのが「北勢四十八家」の伝承である。「四十八家」の表現は「勢州軍記」で記述されて、以後の軍記物・地誌・市町村史に引き継がれた。四十八家は実数でなくて、相撲の技を指す「四十八手」と同様の用法で、北伊勢の国人地侍を意味するものだった。

 中世戦国時代安土桃山時代における伊勢国では北畠氏中勢地方を支配)・神戸氏鈴鹿郡が勢力圏)が戦国大名であった。北勢地域(伊勢国北部)では以下の北勢四十八家と呼ばれた豪族が統治していた。

 北勢四十八家一覧 ・1、千種家 ・2、神戸家 ・3、赤堀家 ・4、朝倉家 ・5、南部・家 ・6、楠家 ・7、春日部家 ・8、海老名家 ・9、疋田家 ・10、稲生家 ・11、矢田家 ・12、田原家 ・13、田丸家 ・14、後藤家 ・15、沼木家 ・16、大矢知家 ・17、片岡家 ・18、水谷家 ・19、栗田家 ・29、高井家 ・21、小串家 ・22、草薙家 ・23、横瀬家 ・24、春日部家25、江見家 ・26、後藤家 ・27、春日部家 ・28、毛利家 ・29、松岡家 ・30、富永家 ・31、保々家 ・32、多家 ・33、治田家 ・34、片山家35、西野家 ・36、伊藤家 ・37、野村家 ・38、浜田家 ・39、小阪家 ・40近藤家 ・41、種村家 ・42、伊藤家 ・43、渡辺家 ・44、矢田家 ・45、森家 ・46、安藤家 ・47片岡家 ・48、西松家 ・49、近藤家 ・50.佐脇家

 織田信長の北伊勢侵攻が1569年(永禄十一年)にあった。織田信長は四万人の大軍で岐阜城から進撃し、先陣の滝川一益の戦略と尽力により朝明郡の中野城(赤堀氏)、西村城、羽津城(田原氏)、茂福城南部氏)、大矢知城大矢知氏)、伊坂城(春日部氏)、市場城、疋田城、広永城、小向城(朝日町)、下野山城や、北勢四十八家の棟梁の千草城(菰野町)を攻略した。

 三重郡の後藤采女正の居城、采女城(四日市市)を落城させた。有力な武将、赤堀近宗や楠城も織田氏の軍門に下った。

 千草氏、宇野部氏、赤堀氏、稲生氏に従う国侍が織田氏に服属して北勢四十八家は滅んだ。『勢州軍記』には「勢州分領の事について。伊勢国は諸家が四分割して守護する。伊勢国の南部の六郡は北畠氏の領地なり。伊勢国の北部の八郡は工藤氏の一家、関氏の一党やその他北方諸侍の領地なり」と記述がある。

南伊勢の北畠氏、安濃郡の長野氏、鈴鹿の関氏、北伊勢の北勢地域の諸侍の四勢力の分立であった。

戦国時代の群雄割拠で伊勢国の諸家は四つの勢力に分かれた。

南勢の五郡は国司である北畠具教が統治していた。

長野氏・植藤氏を中心とする安濃郡地域は長野一族と安濃郡雲林院に住む工藤一族が統治していた。

 元亀二年(1571)2月、近江国・佐和山城の磯野員昌が信長に城を明け渡し退却した。5月には横山城の秀吉が、約五百の募兵で浅井井規率いる一揆勢を五千を破るなど近江では織田軍が優位に立った。

 ここで信長は五万の兵を率いて伊勢に出陣・軍団は三方に分かれて攻めに入った。

〇信長本隊、津島に着陣。

〇佐久間信盛軍団、中筋口から攻め入る。(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)

〇柴田勝家軍団、西河岸の太田口(氏家卜全、稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長嗣・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)

 

 織田軍は周辺の村々を中心に放火をし、五月十六日はひとまず軍を引いた。

これを見た一揆勢は山中に打ち合わせ移動し、撤退の途中の道が狭い箇所に弓兵・鉄砲兵を配置して待ち受けた。

 信長本隊と佐久間軍は直ぐに兵を引くことを出来たが、殿軍(最後尾で警備に備える)の柴田勝家が負傷、勝家に代わって殿をつとめた氏家卜全とその家臣数名が討ち死にした。

 これによって、単なる一揆勢の攻撃と違って、伏兵戦略を講じた武将集団と見込んだ織田軍側は防衛の力の高さを思い知らされた。

 また、桑名方面から海路を使って雑賀衆らの人員や兵糧・鉄砲などの物資が補給されていたので、信長は長島に対しての侵攻作戦内容を大きく再考を余儀なくされた。