後に朝倉家に滞在する足利義昭らに対して、朝倉家中では、都の毒で主君の一族が毒殺されることを警戒したなどの記録から、宣教師とも良好な関係を持っていた永禄期の幕府は異国の毒物をひそかに入手し、これを三好家に用いたのではないかと推論される。この説では、特に三好長慶には、阿片新大陸コカの葉から抽出された新種の薬物等が投与された可能性まで示唆される。これらの毒物によって長慶は若くして廃人同然にされ、三好義興は毒殺され、幼い主を抱えた三好家は毛利隆元らの死も含めて、幕府に対立する重要人物の相次ぐ不審死に対して将軍家への反感と疑惑を強め、ついには将軍を武力で打倒することを決意したのではないかと推測される。

 ただし、この風変わりな説は状況証拠のみによって組み立てられており、現在のところ通説となるには至っていない。

 いずれにしても永禄の変直前の三好義興・三好長慶らの相次ぐ死は、三好家・将軍家の権力基盤を揺動させるものだったとは考えられる。義輝の排除はもともと三好・松永の発案ですらなく、古くは阿波守護細川持隆が最初に策した事でもあり、実権と将軍専制に固執し、かつ政治的手腕に欠け、幕府に混乱しか生まない義輝の存在を煙たく感じるものもいた。

 三好・松永側は実際に訴訟(要求)の取次を求めて御所を訪れたものの、取次の際の齟齬から両軍の衝突に発展してしまったもので、最初から将軍殺害を計画していた訳ではないとする説もある。

 義輝の死の直後、松永久秀らは義輝の弟で鹿苑院院主周暠を殺害、義輝のもう一人の弟で大和興福寺一乗院門跡覚慶を幽閉した。だが、二ヵ月後の七月二八日に覚慶は義輝の近臣一色藤長細川藤孝らの手により脱出した。翌年二月に覚慶は足利義秋(後に義昭と改名)と名乗って還俗。近江矢島(現在の滋賀県守山市)を経て越前守護朝倉義景を頼った。

 一方、三好三人衆は義輝兄弟の従弟で、かつての堺公方の血統にあたる足利義親(後に義栄と改名)を淡路で擁立し、摂津富田(現在の大阪府高槻市)に入った。

義輝の執政により回復したかに思えた室町幕府の権限であったが、永禄の変の直後にはすでに府奉公衆や奉行衆が主君の仇敵である三好長逸の所に挨拶に赴くなど、義輝の執政の脆弱さを露見する結果に終わっている。

 さらに、永禄の変について織田信長の重臣太田牛一は、「義輝の側が三好家に対して謀反を企てたため殺害された」という旨を信長公記に記している。

 

 

 

五、「南都焼討」

 三好三人衆は義栄擁立を画策する一方で、長慶の死後に三好氏の家政を握った松永久秀と対立し、主君三好義継を擁して久秀の排除を画策した。

 その頃、久秀は実力をもって大和守護を自称して大和の平定に動いていた。同国は元々興福寺に守護の権限があり、興福寺の衆徒であった筒井順昭が戦国大名化して大和を平定していたが、順昭が急死すると後継者である筒井順慶が幼い事を幸いに、永禄二年(1559)に久秀は長慶の命令を受けて大和に侵攻し、筒井氏の所領と興福寺が持つ守護の地位を奪い取ったのである。

 三人衆はこれに不満を抱く順慶と興福寺に対して久秀討伐を持ちかけて秘かに手を結んだのである。

 折りしも、覚慶が興福寺を脱出して越前に逃れたことが発覚したため、三人衆が守護である久秀の責任を追及し、一方の久秀も三好氏当主である義継が三人衆と対立するとこれを煽り、逆に三人衆討伐を計画するようになった。

 かくして、十二月二十一日に三人衆の軍が大和に侵攻を開始し、筒井順慶と共に久秀の居城のある多聞山城(現在の奈良市法蓮町)を包囲した。しかし、多聞山城は強固で松永軍の士気も高かったために二年にわたる睨み合いを続け、あるいは畿内の各地で衝突を続け、次第に小康状態に陥った。

 ところが、この戦い中に三人衆は義継を拘禁していたが、永禄十年(1567)二月、義継は三人衆の下を脱出、久秀と和睦し、三人衆に対し共闘するようになる。 

 この動きに三人衆は大規模な攻勢をかけるべく、四月に大和へ出兵した。松永軍は多聞山城に再度入り、三人衆・筒井軍は興福寺大乗院の裏山である大乗院山などに陣を構えた。

 やがて、山を降りて東大寺大仏殿に本陣を移し、ここを拠点に多聞山城を攻撃した。双方とも相手を攻撃するために周辺各所に火を付けた為、東大寺や興福寺の一部塔頭般若寺が次々に炎上した。

 七月七日には東大寺の戒壇である戒壇院が炎上し、松永軍はその焼け跡に陣地を構えた。これによって奈良時代以来の大寺院である東大寺の中に敵対する両者が陣地を築いて睨み合うという異常事態となったのである。

 そして、永禄十年十月十日(1567)、ついに久秀は大仏殿にいる三人衆・筒井連合軍に総攻撃をかけたのである。子の刻に大仏殿は三好方の陣からの出火により火の手に包まれ、東大寺の全域が戦場と化した。

 やがて、三人衆軍・筒井連合軍は退却したものの、以後も大和国内をはじめとする畿内各地で戦闘が続いた。しかし、永禄十一年(1568)九月に足利義昭を擁立した織田信長が上洛し、永禄の変とその後の混乱は収束した。

 東大寺は二月堂法華堂正倉院・南大門・鐘楼・転害門・念仏堂などが焼け残り、被害そのものは治承・寿永の乱(源平合戦)の時に行われた平重衡南都焼討よりも少なかったが、類焼によって炎上した前回とは違い、東大寺そのものが戦場になり、なおかつ大仏殿に直接火がかけられたと言う事実は内外に衝撃を与えた。

 更にこの時の火災で打撃を受けた大仏そのものも後日首が落下してしまい、修理費用も無くそのまま放置され、大仏と大仏殿の両方の再建が行われたのは、一二〇年以上も後の(1680~1700年代)(貞享元禄年間)のことであった。

 この変で義輝は殺され、室町幕府の棟梁である征夷大将軍が不在になってしまった。先に六代将軍足利義教が暗殺された嘉吉の乱では、管領細川持之らが評定を開いて直ちに後継将軍が定められたが、応仁の乱以降管領の力は急激に弱まり永禄の変以前の永禄六年(1563)に管領細川氏綱が死去すると、次期管領は任命されなかった。

 また、当時は将軍・管領の不在は珍しくはなく、その状況下でも奉行衆ら在京の幕臣によって最低限の幕府機能は維持されていたが、今回の場合は事件への対応を巡って在京の幕臣の分裂も招いて幕府機能は事実上停止するに至った。

 更に、京都を支配する三好・松永両氏と京都近郊の有力守護である朝倉氏が別々の後継将軍候補を擁している状況にあった