戦国時代の歴史上、今川方総力は二万五千~四万五千と言われている。片や織田軍の総勢は三千~五千の兵力で結果的に今川軍の総崩れで敗れ去ったことにある。

しかも、十五歳も年下の若僧にしてやられた。

 少数の織田軍が十倍はあろうかと言うう大軍に勝つことは愉快な奇跡の合戦として受け入れやすく、尾ひれがついて過大評価した節もないわけでもない。

「桶狭間の戦い」は織田軍にとって戦力に劣る今川軍に勝ち目は少ない。まさに敵将に出合い頭に有利な交戦に、信長にとって思わぬ好機に、手薄になった義元と偶然に廻り合えた。

 信長の性格上、合戦の戦法として、ともすれは強硬的、一か八かの勝負に打って出る可能性も少なくない。その場、その時の戦況の状況に偏在自在に作戦を変えてくることもありうる。 

 

三、「美濃攻略」

 尾張統一を果たした翌、永禄三年(1560)5月、今川義元が尾張国へ侵攻、駿河、遠江の本国に加え三河国を分国する今川氏の軍勢は二万人とも四万人とも言われる大軍であった。

 敵将の今川義元を討ち取った限り、あまり間を置かずに、また時期大将の選出される前に、叩きのめさなければ、厄介なことになる。

 織田信長は再復帰のたとえ小さな芽でも完全に摘み取らないと、やがては我が身に降りかかることは、戦国大名や武将の鉄則で、信長も十分わきまえての作戦であった。

 迎え撃つ織田軍はこれに対して防戦した総兵力は五千人あまり、今川軍三河勢を先鋒(家康軍)として織田軍の城砦を次々に陥落させていった。

 信長しばし静寂を保っていたが反転攻勢に転じ、四千人の軍勢を整えて、出撃し、今川軍三河勢の陣中に攻撃をかけ義元を討ち取った。今川軍はいったんは駿河国に退去した。

 桶狭間戦い後に三河国の松平氏の離反に等により急速に衰退していった。

今川氏から離反した家康は織田信長と手を結び両者勢力を伸ばしていった。

 今川氏の人質同然の従属させられて、主権のなかった家康には独立できる絶好のチャンスであった。

 織田信長は親戚関係の斉藤道三の死後は険悪な関係になり、一進一退の状況が続いたが斎藤氏の内紛に乗じて加世田城主・佐藤忠能と加世田衆を味方につけて中濃を手中に収め、さらに西美濃三人衆を味方に入れて、ついに永禄十年に斉藤龍興を伊勢国長島に敗走させた。

※斉藤道山の娘帰蝶は織田信長の正室で、斉藤道山の存命中は、織田家とは表立った軋轢なく、平穏を保てていた。  

 

 朝廷は信長を「天下無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが、信長は丁重に断っている。

信長は戦乱世に一方の衰退する足利義昭に与することも、朝廷の依頼を受けて、都合良く遣われるのは嫌って朝廷からの要職を体よく断っていた。

 その頃、中央の情勢は三好三人衆が、幕府権力の復活を目指し将軍足利義輝を暗殺し、十四代将軍として義輝の従弟の足利義栄を擁立する。

 足利将軍候補にも弱体したにもかかわらず、将軍家の復活をかっけて、信長や朝廷、三好三人衆に思惑をはせる。

 信長に取り、三好三人衆は戦国の世に混乱を招くだけの存在で、嫌っていたが、便利良く利用する信長包囲網に組み込まれていった。

 一方足利義昭は六角義賢や和田惟政とともに諸国の大名に三好氏を討伐して義昭の上洛と将軍擁立に協力を働きかけた。

 ところが上杉謙信や武田信玄は地方の諸大名は近隣諸国との対立を抱えて動きがとれなかった。

京都周辺の大名を連合させて義昭を上洛させる計画が立てられ、尾張国の織田信長に要請を行った。

 信長の上洛には、信長の拠点から程よい場所に合って、留守居し緊急時に帰還できる場所にあった。

 信長は斉藤龍興の存在があって躊躇したが、義昭側の斉藤龍興への働きかけに応じて停戦に応じたために、斎藤氏の美濃国から北伊勢・南近江を経て上洛の兵を送ることとなった。

 信長と斉藤道山の亡き後に継いだ龍興は険悪の中で、隙あらば両者の領地の奪い合いが勃発恐れがあった。

 ところが、斉藤龍興と相前後して六角義賢も離反し、義昭、信長の交渉は一時中断した。その後、義昭と信長の交渉が再開されて、義昭の三好氏追討の要請に応じた。