二,「桶狭間の合戦」

 正午頃、中嶋砦の前衛に張り出していた佐々政次千秋四郎ら三十余りの部隊は信長出陣の報に意気上がり、単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。しかし逆に佐々、千秋らが討ち取られてしまう。義元は丸根、鷲津両砦の陥落に加え緒戦でのこの勝利に気を良くした。

 十三時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降る。記録には「石水混じり」と書かれているため、(ひょう)だった可能性がある。織田軍はこれに乗じて兵を進め、義元の本隊に奇襲をかけた。今川軍の総勢は二万人であったとされるが、義元を守る兵力は五千から六千人に過ぎずに、双方の戦力が拮抗した結果、大将同士が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦となった。

 記録によれば、義元は輿を捨て三百騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとしたが、度重なる攻撃で周囲の兵を失い、ついには信長の馬廻に追いつかれる。

 義元は服部一忠を返り討ちにしたが、毛利良勝によって組み伏せられ、討ち取られた。記録によれば、義元は首を討たれる際、毛利の左指を喰い切ったという。

 総大将であり今川家の前当主である義元の戦死により今川軍は戦意を喪失し、合戦は織田軍の勝利に終わった。

 江戸時代に書かれたとみられる、名古屋市・長福寺所蔵の「桶狭間合戦討死者書上」によると、今川方の戦死者は二七五三二人、織田方の戦死者は九九〇人あまりだった。また、書上によると、近江国佐々木方(六角氏)が織田方に参戦しており、援軍の死者は織田方のうち二七二人を占めたという。

 

※今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代駿河国及び遠江国守護大名戦  国大名今川氏第十一代当主。婚姻関係により、武田信玄北条氏康とは義兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ。寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河遠江から、三河尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦い織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。

 

 今川家の実質的な当主の今川義元松井宗信久野元宗井伊直盛由比正信一宮宗是蒲原氏徳などの有力武将を失った今川軍は浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって後退した。

 水軍を率いて今川方として参戦していた尾張弥冨の土豪、服部友貞は撤退途中に熱田の焼き討ちを企んだが町人の反撃で失敗し、海路敗走した。

 大高城を守っていた松平元康(後の徳川家康)も戦場を離れ、大樹寺(松平家菩提寺)に身を寄せるがここも取り囲まれてしまう。前途を悲観した元康は祖先の墓前で切腹し果てようとした。その時、当寺十三代住職登誉天室が「厭離穢土 欣求浄土」を説き、元康は切腹を思いとどまった。

 そして教えを書した旗を立て、寺僧とともに奮戦し郎党を退散させた。以来、元康はこの言葉を馬印として掲げるようになる。こうして元康は今川軍の城代山田景隆が捨てて逃げた岡崎城にたどりついた。

 尾張・三河の国境で今川方に就いた諸城は依然として織田方に抵抗したが、織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、六月二十一日沓掛城を攻略して近藤景春を敗死に追い込むなど、一帯を一挙に奪還していった。

 しかし鳴海城は城将・岡部元信以下踏みとどまって頑強に抵抗を続け、ついに落城しなかった。元信は織田信長と交渉し、今川義元の首級と引き換えに開城、駿河に帰る途上三河刈谷城を攻略し水野信近を討ち取るなどし、義元の首を携えて駿河に帰国したが、信近の兄の水野信元はただちに刈谷城を奪還したうえ、以前に今川に攻略されていた重原城も奪還した。

 一連の戦いで西三河から尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃されたうえ、別働隊の先鋒として戦っていたため難を逃れた岡崎の松平元康は今川氏から自立して松平氏の旧領回復を目指し始め、この地方は織田信長と元康の角逐の場となった。

「家康今川方から離反」 

 しかし元康は義元の後を継いだ今川氏真が義元の仇討の出陣をしないことを理由に、今川氏から完全に離反し、永禄五年(1562)になって氏真に無断で織田氏と講和した(織徳同盟)。以後、公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。

 また、信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後美濃斎藤氏との戦いに専念できるようになり、急速に勢力を拡大させていった。

 桶狭間合戦では義元本隊の主力に駿河、遠江の有力武将が多く、これらが多数討たれたこともあり今川領国の動揺と信長の台頭は地域情勢に多大な影響を及ぼした。甲相駿三国同盟の一角である今川家の当主が討ち取られたことで、北条家武田家と敵対する勢力、とりわけ越後の長尾景虎(上杉謙信)を大きく勢い付かせることとなり、太田資正勝沼信元らが反乱を起こすなど関東諸侯の多くが謙信に与し、小田原城の戦い第四次川中島の戦いに繋がっていった。   

 さらに甲斐の武田氏と今川氏は関係が悪化し、永禄十一年末には同盟は手切れとなり、武田氏による駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)が開始される。信長と武田氏は永禄初年頃から外交関係を持っており武田氏は同盟相手である今川氏の主敵であった信長と距離を保っていたものの永禄八年頃には信長養女が信玄世子の勝頼に嫁いでいるなど関係は良好で、以後信長と武田氏の関係は同盟関係に近いものとして、武田氏の西上作戦で関係が手切れとなるまで地域情勢に影響を及ぼした。

。大高城・鵜殿長照。沓掛城・浅井政敏近藤景春・清洲方面展開・葛山氏元
「合戦の実態をめぐる議論」

 桶狭間の戦いの経緯は上述の通りであるが、合戦の性格や実態については不確かなことも多く、さまざまな議論を呼んでいる。

 また、戦国大名の軍事行動においては対外勢力への備えとして相備衆を残存させることが一般的で、実際の合戦における兵力は最大動員可能兵力より少なくなる点も留意される。

 しかしながら、今川は甲斐信濃の武田、伊豆相模武蔵の北条とは同盟関係にあり、一方で織田は美濃の斉藤とは敵対関係にあったため、この面では今川にとって状勢はかなり有利であった。

 それに加えて、駿河遠江三河の三国のほか、尾張の南半分を押さえている今川は、尾張の北半分を押さえるに過ぎない織田とは、隔絶した差があったように思われがちである。ただし、上述の通り尾張の南半分は知多半島の不毛地帯であり、逆に尾張の北半分は濃尾平野の穀倉地帯であった。

 実際にはその支配領域から想像されるほどには農業生産性、ひいては動員可能兵力に差がある訳ではなかった。しかし、尾張の国力を信長の動員力と考えるのは適切ではない。