一、「信長の台頭」

 戦国三英傑と言えば、尾張国三河国を中心に排出した織田信長・豊臣秀吉・徳川家康である。

 出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた下記三人の戦国大名について、主に後世において中部地方や愛知県で顕彰する呼称。口語では戦国の三傑が用いられる。名古屋まつりでは毎年、この三人にちなんで郷土英傑行列が行われている。

 一五世紀末、駿河国守護の今川氏親は東海地方において勢力を拡大し、後を継いだ今川義元は駿府を本拠とし駿河・遠江に領国を形成する。また、甲斐国武田氏相模国後北条氏甲相駿三国同盟を締結。西方の三河・尾張方面への領土拡張を図ろうとしていた。

 尾張国では守護・斯波氏の家臣で清洲織田氏の家老である織田弾正忠家が成長。織田信定織田信秀と二代に渡り領土を広げ、今川氏と三河尾張両国の国境地帯の支配を巡って争うようになる。

 西三河を支配していた国衆である松平氏が当主の相次ぐ横死で弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていったために、当初の戦線は松平氏の旧勢力圏をめぐって三河国内にあり、天文十一年(1542)の第一次小豆坂の戦いでは織田方が勝利するなど織田側が優勢であった。

 しかし、天文十七年(1548)の第二次小豆坂の戦いでは今川方が勝利。翌年、今川方が織田方の三河進出の拠点となっていた安祥城を攻略したことによって、織田氏の三河進出は挫折に終わった。

 さらに天文二十年(1551)には織田信秀が病没、後を継いだ織田信長とその弟・信勝(後の織田信行)間で内紛が起こった。信長は幼い頃より「うつけ者」と表され変人奇人の類いの人間で、多くに問題を起こす人間で、一族でも後継に疑心暗鬼を持つ者少なからず。

 この結果、尾張・三河国境地帯における織田氏の勢力は動揺し、信秀の死に前後して鳴海・笠寺両城を守る山口氏が今川方に投降。加えて山口氏の調略によって尾張東南の大高城沓掛城豊明市)の一帯が今川氏の手に落ちた。

 この四城は尾張中心部と知多半島を分断する位置にあった。愛知用水開通以前の知多半島は不毛地帯であったため、そこを押さえられても農業生産性および兵員動員能力では尾張の数分の一以下に過ぎない。

 しかしながら伊勢湾東岸を占める海運の要地であり、商業港である津島を支配し財政の支えとしていた織田家にとって、重大な脅威となっていた。尾張西南の蟹江城も今川方に攻略されており、伊勢湾海域の制海権が徐々に侵略されつつあった。

 織田氏も今川氏の進出阻止や逆襲に動いた。1554年には知多の領主である水野氏を支援して今川方の村木砦を攻め落とした。笠寺城を奪還したほか、鳴海城の周辺には丹下砦善照寺砦中嶋砦を、大高城の周辺には丸根砦鷲津砦を築くことで圧迫し、城と城の相互の連絡を遮断した。

 このような情勢の下、永禄三年(1560)五月十二日、今川義元は自ら大軍を率いて駿府を発ち、尾張を目指して東海道を西進した。五月十七日、尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城に入った今川軍は、翌五月一八日夜、松平元康(徳川家康)が率いる三河勢を先行させ、大高城に兵糧を届けさせた。 一方の織田方は清洲城篭城するか、出撃するべきかで軍議が紛糾していた。

 

 翌五月十九日三時頃、松平元康(徳川家康)と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始する。前日に今川軍接近の報を聞いても動かなかった信長はこの報を得て飛び起き、幸若舞敦盛」を舞った後に出陣の身支度を整えると、明け方の午前四時頃に居城清洲城より出発。小姓衆五騎のみを連れて出た信長は八時頃、熱田神社に到着。その後軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行った。

 

※松平元康(徳川家康)・幼少期を織田氏ついで今川氏の下で人質として過ごす。永禄三年(1560)、桶狭間の戦いでの今川義元の討死を機に今川氏から独立して織田信長と同盟を結び、三河国遠江国に版図を広げる。信長が天正十年(1582)に本能寺の変において死亡すると天正壬午の乱を制して甲斐国信濃国を手中に収める。

 

 十時頃、信長の軍は鳴海城を囲む砦である善照寺砦に入っておよそ二〇〇〇から三〇〇〇人といわれる軍勢を整えた。一方、今川軍の先鋒松平隊の猛攻を受けた丸根砦の織田軍五百名余りは城外に討ってでて白兵戦を展開、大将の佐久間盛重は討死した。鷲津砦では篭城戦を試みたが飯尾定宗織田秀敏が討死、飯尾尚清は敗走したが一定の時間稼ぎには成功した。

 大高城周辺の制圧を完了した今川軍は、義元率いる本隊が沓掛城を出発し、大高城の方面に向かって西に進み、その後進路を南に取った。一方の織田軍は十一時から十二時頃、善照寺砦に佐久間信盛以下五百余りを置き、二千の兵で出撃。鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し、東南への進軍を開始した(但し、信長は中嶋砦まで進軍していたとする資料もある)。

 信長に取って宿敵今川を倒すことが、尾張で生き残る条件であった。今川義元は信長より一五歳年上、今川家の五男で世継ぎとは無縁で、妙心寺に出家していた。

 相次ぐ、兄たちの早世に呼び戻されて今川家の家督を継ぐことになった。義元の諱は将軍足利義晴から一字を貰って義元と名乗る。

 義元は戦国武将としては不向き、今川家の諸事情で家督を譲り受けるが、周辺諸国で強敵であった武田氏との融和を図るために、武田信虎の娘定恵院を正室として、「甲駿同盟」を結んだ。

信長は斎藤道三の娘濃姫を正妻として美濃国大名と融和を図った。