11「唐招提寺建立」

天平宝字3年(759年)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。

新田部親王(にいたべしんのう)は、日本の飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。新田部皇子(にいたべのみこ)とも呼ばれる。天武天皇の皇子。

経歴

文武天皇4年(700年)浄広弐に叙せられ、大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて三品となる。慶雲4年(707年)文武天皇の葬儀に際し造御竈司を務めた際は二品の位階にあった。

養老3年(719年)ときの元正天皇は、舎人・新田部の両親王に皇太子首親王(のちの聖武天皇)の補佐を命じるとともに、皇室の年長者であり天皇にとっても重要な人物であるとして褒賞し、それぞれ内舎人・大舎人・衛士を与え、封戸を加増する。

このとき新田部親王が与えられたのは内舎人2人・大舎人4人・衛士20人・封戸500戸(従前と合わせて1500戸)であった。

養老4年(720年)右大臣・藤原不比等が薨御すると、新田部親王は知五衛及授刀舎人事に任命され、朝廷直轄の軍事力(五衛府・授刀舎人寮)の統括者となる。このとき同時に知太政官事に就任して太政官の首班に立った舎人親王、翌養老5年(721年)に右大臣に任ぜられた長屋王とともに皇親政権を構成した。

神亀元年(724年)聖武天皇の即位に伴って一品に昇叙される。

なお、『続日本紀』神亀5年(728年)7月21日条には「三品大将軍新田部親王に勅して明一品を授く」とあるが、このときすでに新田部は一品であり、「明一品」は大宝令施行とともに廃止された冠位四十八階における皇親の最高位である。

この記事の意味は判然としないが、新田部がこれまでに「大将軍」の称号を有していたことがわかる。神亀6年(729年)に発生した長屋王の変では、六衛府の軍隊が屋敷を包囲するなか、舎人親王らとともに派遣されてその罪の糾問に当たっている。天平3年(731年)畿内に惣管、諸道に鎮撫使が設置された際には、大惣管に任じられた。

天平7年(735年)9月30日薨去。最終官位は大将軍一品。葬儀に際して、ともに皇親政権を支えた舎人親王が派遣されて聖武天皇の弔意が伝えられた。なお、約1ヶ月半後には舎人親王も後を追うように薨去している。

邸宅

新田部の邸宅のあった地は、その後、鑑真に与えられ唐招提寺となった。21世紀の発掘調査の過程で邸宅の遺跡から、部分的に金箔や漆で覆われた塼仏の破片が発掘されている。

鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。

悲田院(ひでんいん)は、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設。

沿革[編集]

聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てられたのが日本での最初とする伝承があり、敬老の日の由来の俗説の一つである(四箇院とは悲田院に敬田院・施薬院・療病院を合せたものである)。

中国では唐代に設置されたものが、日本同様に社会福祉のはしりとして紹介される場合がある(収容型施設のはしりであることには間違いない)。

日本では養老7年(723年)、皇太子妃時代の光明皇后が興福寺に施薬院と悲田院を設置したとの記録があり(『扶桑略記』同年条)、これが記録上最古のものである。なお、興福寺の施薬院・悲田院と、光明皇后の皇后宮職に設置された施薬院・悲田院とを同一の施設とみる説と、両者は別個に設置されたものとみる説とがある。

また、奈良時代には鑑真により興福寺にも設立された。

平安時代には、平安京の東西二カ所に増設され、同じく光明皇后によって設立された施薬院の別院となってその管理下におかれた。

鎌倉時代には忍性が各地に開設し、以降、中世非人の拠点の一つとなった。

現在は京都市東山区の泉涌寺の塔頭の一つとして悲田院があり、これは平安京の悲田院の後身と伝えられる。

また、上述の四天王寺のある大阪市天王寺区の南端に位置する悲田院町(JR・地下鉄天王寺駅近辺)など、地名として残っているところもある。

 

天平宝字7年(763年)唐招提寺で死去(遷化)した。

唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。

本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。

唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

歴史

『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名は当初は「唐律招提」と称した。

「招提」は、サンスクリットの(「四方」の意)に由来する中国語で、四方から僧たちの集まり住する所を意味した。鑑真研究者の安藤更生によれば、唐では官寺でない寺を「招提」と称したという。

「唐律招提」とは、「唐の律を学ぶ道場」の意であり、後に官額を賜ってから「唐招提寺」と称するようになった。

鑑真の渡日と戒律の伝来

鑑真(688年 – 763年)の渡日については、淡海三船撰の『唐大和上東征伝』(宝亀10年・779年成立)が根本史料となっている。唐招提寺の歴史については同書のほか、『招提寺建立縁起』、江戸時代のものであるが元禄14年(1701年)義澄撰の『招提千歳伝記』などの史料がある。『建立縁起』は、承和2年(835年)に鑑真の孫弟子にあたる豊安が記した『招提寺流記』が原本であるが、この原本はすでに失われ、抄出したものが『諸寺縁起集』(護国寺本、醍醐寺本)に収録されている。