小浜藩の御用商人である石屋久兵衛は息子の放蕩に悩まされていた。忠勝は石屋からその相談を受けたとき「心配するな。倅の放蕩は直る」と言った。

石屋がその方法を尋ねると「石屋が倅に金をあまり持たせないようにしているのがかえって悪いのだ。倅に欲しいだけ与えれば立ち直る」と述べた。石屋は忠勝の言ったとおりにした。

すると大金を目にした息子は使うことを急に惜しむようになり、遊びを止めて米相場を行ない、利益を得たという(『仰景録』)。

忠勝は幕政に参与していることが多かったが、人身売買の禁止や税制の制定、五人組の制定、治安維持、水利施設の設備、植林や開墾などを奨励した郷中法度を制定して藩政の基礎を築き上げている。

その他少年時代、忠勝はぼんやりして足らぬ気で周囲を心配させたという。16歳のとき、駿府で大火があり供の者を率いて鎮火に務めて引き揚げるとき、供が喉の渇きを訴えた。

大火の後だから水など無く、大火を免れた酒屋で酒を飲もうとした。しかし忠勝は「すき腹に酒を飲んでは腰が抜ける。酒屋にある粕を焼いてから飲め」と下知し、それまで心配させていた周囲を感嘆させた(林鷲峰『玉露集』)。

 

11「甲州武士が忠勝は信玄に似ている」

忠勝は少し赤ら顔で指でちょこちょこ押したくらいの痘痕の痕があり、唇の端は垂れ少し開き気味のうば口の形などは武田信玄によく似ていると、甲州武士である田中六右衛門に評された(『仰景録』)。

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。

「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。

甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。

その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野および遠江、三河、美濃、飛騨などの一部を領した。

次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。

出生から甲斐守護継承まで

大永元年11月3日、甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。

甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し、有力国衆が台頭していたが、信玄の曾祖父にあたる武田信昌期には守護代跡部氏を排斥するなど、国衆勢力を服従させて国内統一が進む。

信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519年)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府。家臣団組織が整備され、戦国大名として武田氏の地位が確立されていた。

信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。

信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したという。

幼名は太郎。傅役は不明だが、『甲陽軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。土屋昌続の父、金丸筑前守も傅役であったと伝わる。

大永3年(1523年)、兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる。

大永5年(1525年)、父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎(武田信繁)が生まれる。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったと言う。

信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。

天文2年(1533年)、扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。

これは政略結婚であるが、晴信との仲は良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で上杉の方も子も死去している。

天文5年(1536年)3月、太郎は元服して、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「」の偏諱を賜り、名を「晴信」と改める。官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。