人物・逸話

嵐寛寿郎の映画である『文武太平記』に拠れば、家綱は温厚な人柄で絵画や魚釣りなど趣味を好み、政務を酒井忠清をはじめ老中らに任せ自らは「左様せい」で決裁していたことから「左様せい様」という異名が付けられたという。

この逸話は家綱自身が幕政指導者としての指導力を発揮できず忠清の専制を示すものとしても引用されているが、辻達也や福田千鶴らは幕政の意思決定における将軍上意の重要性を指摘している。

ただし、一般的な殿様は決裁の際言うべき言葉は「そうせい」「考え直せ」「もってのほかじゃ」の三つしか言わないように教育されており、他の殿様にしてもあだ名がそうせい公や、よかろう公などのエピソードが多々あり、基本的に主導権を積極的にとる殿様は少なく、むしろそういった殿様ではないように教育をするのが普通である。(だから三つしか決済の時にいわない)

家綱が元服するまでは保科正之ら家光時代の遺産ともいうべき人材に恵まれていたのが安定した時代を築ける幸運でもあった。『徳川名君名臣言行録』では「吾、幼年なりといえども、先業を承け継ぎ、大位に居れり」とある。

新井白石著の『白石手簡』では、家綱は中国の唐時代の政治書である『貞観政要』を好み、幕政運営の参考にしたという。

『武野燭談』に拠れば、家綱の将軍就任から間もない幼少期のことだが、江戸城天守閣へ登った際に近習の者が遠眼鏡を勧めたが「自分は少年ながら将軍である。もし将軍が天守から遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、恐らく世人は嫌な思いをするに違いない」と遠眼鏡を手に取らなかったという。

遠島となった罪人の話を聞き、家綱は「彼らは何を食べているのだろう」と近臣の者に尋ねたが誰も答えられず、それに対し家綱は「命を助けて流罪にしたのに何故、食料を与えないのか」と言った。

それを聞いた父の家光は喜び、「これを竹千代(家綱)の仕置きはじめにせよ」と家臣に命じ、流人に食料を与えるようになったという。

家綱が食事していたとき、汁物を飲もうとしたところ髪の毛が入っていた。家綱は平然とその髪の毛を箸で摘まんで取り除いたが、小姓が慌てて新しい物と交換しようとした。

家綱はその小姓に「その汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように」といった。これは椀を空にすることにより普段のおかわりと同じ様に扱えということで、咎められる者が出ないようにと家綱が配慮したのであった。

明暦の大火で焼失被害にあった江戸市中の武家屋敷、神社仏閣などに資金援助し、復興に助力したという。

明暦の大火を教訓に、両国橋を架設した。また、両国橋のたもとに「火除地」を設けた。

また、橋のたもとに建造物を建設することを禁じた。ただし、すぐに取り壊せることを条件に、建設を一部許可した。「すぐに壊せる」という条件から、さかんに土俵が作られた。これが発端となり、両国は相撲の街として知られるようになった。

76歳のとき、忠勝は病に倒れた。高齢だったために死期を悟り、看護は近習だけにして女性は近づけず、医師の勧める薬も拒んだ。

しかし将軍・家綱や幕閣らは治療して早く治すように求めたため、やむなく薬を飲んだが高齢ですでに手遅れだった。忠勝の最期は端座したものだったという(『忠勝年譜抄説』)。

10「小浜藩政の一揆」

小浜城を作る際に若狭の百姓にだけ多い年貢を取り立てた。これに抗議し忠勝に処刑された庄屋である松木庄左衛門を祭る神社が福井県三方上中郡若狭町新道にある。水上勉は随筆の中でこのことに触れ、「めったに国に帰らないのに城だけは作らせた」「百姓の血汗を絞って作った小浜城」と記している(『水の幻想』)。

松木 庄左衛門(まつのき しょうざえもん、寛永2年1月25日(1625年3月3日)-承応元年5月16日(1652年6月21日))は、江戸時代前期の小浜藩の義民。実名は不詳。法号より長操(ちょうそう)とも称される。若狭国遠敷郡新道村(現在の福井県三方上中郡若狭町新道)の庄屋。

経歴

寛永17年(1640年)、16歳で庄屋の地位を継ぐ。

小浜藩では関ヶ原の戦いで木下勝俊が改易されて京極高次が新藩主となったが、これまでの後瀬山城に替わって新たに小浜城を築城したために財政が苦しかった。

このため、大豆納の年貢1俵の基準を1俵あたり4斗から4と5升に改めて増徴を図った。築城で多くの農民が駆り出されたこともあって領民の生活は苦しくなり、藩側に大豆納を元に戻すように要求したが受け入れられなかった。寛永11年(1634年)に京極忠高(高次の子)に替わって小浜藩主となった酒井忠勝も引き続き税制を維持したために人々の不満は高まった。

そこで寛永17年(1640年)に入って、若狭国内252ヶ村の名主が集まって郡代官所に陳情を行うことになり、この年に名主となったばかりの庄左衛門他20名を総代として陳情を行った。

以後、数十回にもわたって直訴を繰り返したために、承応元年(1652年)に総代全員が捕らえられ、獄中で厳しい拷問を受けた。

だが、1人庄左衛門のみはこれを耐えて、獄中でもなお大豆納の引き下げを求めた。

これに驚いた藩はやむなく大豆納を元の4斗に戻すことに応じたが、代わりに庄左衛門は同国日笠河原で磔に処せられ、28歳の命を終えた(小浜藩領承応元年一揆)。

以後、領民は大豆の初穂を神前に供えて彼の威徳を謝した。

墓所は日笠河原に近い正明寺にある。昭和になってから、彼を祀った松木神社が建立された。