そしてその帰途の際に乗っていた駕籠の担ぎ手の尻を脇差で刺し、驚いて逃げ出した担ぎ手を殺害してしまっており、これらを聞いた家光を激怒させ、咎められている。

寛永8年(1631年)12月、小姓の小浜七之助と共に鷹狩りに出かけた際に雪が降り、忠長は寺で休息していたが、火を焚くよう命じられていた七之助が、薪が雪で濡れていて火が付けられなかった事に癇癪を起こし、七之助を手打ちにしてしまう。事態を知って泣き叫ぶ父親が幕府に訴え出た結果、これまでの乱行の数々もあって遂に家光の堪忍袋の尾が切れてしまうこととなり、これを理由として甲府への蟄居を命じられる。その際に秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが許されなかった。

寛永9年(1632年)の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたがこれも許されず、一説では忠長の横暴な振る舞いを知った秀忠本人からも面会を拒絶されたとされている。

改易とその後

秀忠死後、甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収され、10月20日に安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下される。また、その際に朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易されている。

寛永10年12月6日(1634年1月5日)、幕命により高崎の大信寺において自刃した。

享年28。墓は43回忌にあたる延宝3年(1675年)になって大信寺に建立され、現在では高崎市指定史跡となっており、硯箱、自刃に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに保存されている。

家族関係

正室は織田信良の娘・昌子が定説となっているが、高崎市極楽寺には忠長の墓碑と共に「承應三年正月廿一日 二世神女淸月彌勒院內儀松譽春貞大姉 德川忠長正室 俗名 吉井庚子 五十五才」と記された墓碑がある。供養塔が鎌倉市の薬王寺、京都市左京区の金戒光明寺にある。

側室は、大信寺の過去帳に忠長側妾で院殿がついている人が3人ほどいることから、その存在が推測されるが、詳細は不明。

子には松平長七郎(長頼)がいると伝えられているが、これは従兄弟松平忠直が配流先でもうけた永見長頼のことではないかと考えられ、実子の存在は史料の上では確認されていない。

改易の理由

改易の理由として、加藤忠広の改易に関与した(『藩翰譜』)、大坂城と畿内55万石の所領を求めた(『寛永小説』)等の説が江戸中期からあり、『徳川実紀』に載る家光との後継者争いの逸話と併せて家光による計画的な排除とする説がある。

しかし当時の細川忠利や島津家江戸家老の伝聞や観察によれば、忠長の改易は彼個人の狂気とされる。具体的には寛永8年2月2日に酒に酔った忠長は、家臣の小浜光隆の子や御伽の坊主を殺害、その上翌日に殺害した者を呼び出す行動に出ている。その後も傅役の内藤政吉を甲冑姿で追い回し、殺害した禿(少女)を唐犬に食わせ、腰元の女中に酒を飲ませて責め殺すといった行為を行ったとされる。

3月末には忠長の乱行を恐れた側近が近づかなくなり、彼には幼い2人の子供が仕えるに過ぎなかった。忠利は忠長のこれらの行為は酒乱ではなく発狂によるものとしている。

忠長の一連の行動を知った秀忠は即座に彼を勘当、処分を家光に一任している。家光は酒井忠世・土井利勝等を再三遣わし、2人しかいない兄弟と更生を促して忠長もこれに同意し、4月後半には一時平静を取り戻した。

しかし結局は回復せず、前述のように5月18日に甲府蟄居が命じられた。しかし家光はなおも蟄居の状態で駿府への帰還を認めており、忠長も上記のように誓詞を提出したが行状は悪化し、ついに寛永9年10月20日に改易と高崎への逼塞が決定した[

 

8「忠勝の幼君を思う忠臣を披露」

家光没後の翌日、忠勝は諸大名を江戸に集めて「公方様(家光)御他界に候へども、大納言(家綱)様御家督の事に候へば、何れも安堵あるべし。若し天下を望まれとならば、此節にて候ぞ」と言い放った。すると松平光通と保科正之が進み出て諸大名に向かい、「各々讃岐守申す旨承らるべし。此砌誰か天下を望む者あるべき、若し不思議の企仕る輩も候はば、我々に仰付らるべし。ふみつぶして御代始めの祝儀に仕候はん」と申し出て諸大名を平伏させたという(忠勝が「家綱は幼少ゆえ、天下を望む者があればよい機会である」といい、光通・正之らが「天下を望む者あれば申し出てみよ。徳川の代潰しの盃といこう」と述べている)。

松平 光通(まつだいら みつみち)は、江戸時代前期の大名。越前国福井藩の4代藩主。官位は従四位下・左近衛権少将。結城秀康の孫に当たる。

藩主時代

寛永13年(1636年)5月7日、3代藩主・松平忠昌の次男(次男だが嫡男)として誕生。幼名は万千代丸。乳母は長光院。

正保2年(1645年)10月、父の死去により10歳の幼少で後を継ぐ。このとき父の遺言に従い、庶兄・仙菊(のちの松平昌勝)に5万石を分与して松岡藩を、庶弟・辰之助(のちの松平昌親)に2万5000石を分与して吉江藩をそれぞれ立藩させた。同年12月31日、従四位下侍従に任じられた。後継したとはいえ幼少であり、江戸在府のままであった。福井藩は、光通初入国までの間は幕府からの「後見役」という名の指導を受けた。