慶長10年(1605年)、家康が将軍職を三男の秀忠に譲って大御所となり、家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣が、駿府の家康には正純が、そして正純の父・正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになった。慶長13年(1608年)には下野国小山藩3万3,000石の大名として取り立てられた。

慶長17年(1612年)2月、正純の家臣・岡本大八は肥前国日野江藩主・有馬晴信から多額の賄賂をせしめ、肥前杵島郡・藤津郡・彼杵郡の加増を斡旋すると約束したが、これが詐欺であった事が判明し、大八は火刑に処され、晴信は流刑となり後に自害へと追い込まれた(岡本大八事件)。大八がキリシタンであったため、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する事になる。

慶長17年(1612年)12月22日には築城後間もない駿府城が火災で焼失したが、再建がなるまでの間、家康は正純の屋敷で暮らしている。

慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を家康に進言したのは、正純であったと言われている。

秀忠時代

元和2年(1616年)、家康と正信が相次いで没した後は、江戸に転任して第2代将軍・徳川秀忠の側近となり、年寄(後の老中)にまで列せられた。しかし先代からの宿老である事を恃み権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる。なお、家康と正信が死去した後、2万石を加増されて5万3,000石の大名となる。

元和5年(1619年)10月に福島正則の改易後、亡き家康の遺命であるとして下野国小山藩5万3,000石から宇都宮藩15万5,000石に加増を受けた。これにより、周囲からさらなる怨みを買うようになる。

ただし、正純自身は、さしたる武功も立てていない自分にとっては過分な知行であり、また政敵の怨嗟、憤怒も斟酌し、加増を固辞していた。

幕僚の世代交代が進んでいたが、正純は代わらず、幕府で枢要な地位にあった。しかし、後ろ盾である家康や父・正信が没し、秀忠が主導権を握った事と、秀忠側近である土井利勝らが台頭してきたことで正純の影響力、政治力は弱まっていった。

失脚

元和8年(1622年)8月、出羽山形の最上氏が改易された際、正純は上使として山形城の受取りに派遣された。

9月上旬に最上領に入った正純は、周辺諸大名とともに無事に城を接収した。しかしそのとき数日遅れで遣わされた伊丹康勝と高木正次が正純糾問の使者として後を追っていた。

伊丹らは、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城釣天井事件などを理由に11か条の罪状嫌疑を突きつけた。正純は最初の11か条については明快に答えたが、そこで追加して質問された3か条については適切な弁明ができなかった。

その3か条とは城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲の無断購入、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をしたこととされる。

一方、『梅津政景日記』は改易の理由を、正純の奉公不足を原因とし、具体的に福島正則改易・宇都宮拝領・宇都宮城普請未成を挙げている。

また元和8年10月6日付細川忠利書状には、正純が家康生前駿河にいた頃から秀忠の意向に背くことが多く、加増による改心を期待したが態度を改めなかったとあり、同様の記述が10月10付土井利勝・酒井忠世書状にもある。更に同月11日付同人書状にはこれに加えて、秀忠は今まで正純が家康側近だったため遠慮したが、これ以上は勘弁ならなかったとある。

特に福島正則改易の諌止と宇都宮拝領の固辞と拝領後の上知申立は、秀忠の面目を損なう行為として決定的な怒りを買った。

先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽国由利(現在の由利本荘市)に5万5,000石を与える、という代命を受けた。

この時、使者として赴いた高木正次、伊丹康勝らの詰問に、さらに弁明の中で、謀反に身に覚えがない正純は毅然とした態度で応じ、その5万5,000石を固辞した。

これが秀忠の逆鱗に触れることとなった。高木と伊丹が正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると、秀忠は激怒し、本多家は改易され、知行は1,000石のみとなり、身柄は佐竹義宣に預けられ、出羽国由利へ流罪となり、後に出羽国横手にて幽閉の身となった。正純の失脚により、家康時代、その側近を固めた一派は完全に排斥され、土井利勝ら秀忠側近が影響力を一層強めることになる。

この顛末は、家康・秀忠の二元政治時代、本多親子の後塵を拝して正純の存在を疎ましく思っていた土井利勝らの謀略であったとも、あるいは、秀忠の姉・加納御前(亀姫)が秀忠に正純の非を直訴したためだともされる。

忠隣の親戚に当たる大久保忠教(彦左衛門)は、誣告を用いて忠隣を陥れた因果を受けたと快哉を叫んだという。

また、秀忠自身も父・家康の代から自らの意に沿わない正純を疎ましく思っていた。ただし秀忠が関が原に遅参した際に本多正純は「秀忠公が遅れられたのは参謀たるわが父正信が謀を誤った為であります。どうか父正信を処罰し、秀忠公の咎でないことを天下に明らかにして頂きとうございます」と言い、その言葉に秀忠は感謝し「よくぞ言ってくれた。

そのほうの言葉、一生忘れぬぞ。」と言ったと逸話もある。