寛永14年(1637年)頃から中風を病むようになり、病気を理由に老中辞任を申し出るが、家光より慰留されて撤回する。寛永15年(1638年)11月7日、体調を気遣った家光の計らいにより、実務を離れて大老となり、事実上の名誉職のみの立場となった。

寛永21年(1644年)6月に病床に臥し、将軍代参の見舞いを受けるなどしたが、7月10日に死去した。享年72。跡を長男の利隆が継いだ。

人物・逸話

土井利勝と同じく、江戸時代初期に幕僚として活躍した人物には優れた人物が大勢いたが、なかんずく、利勝は公正さを重んじたと評される。

秀忠が家督を家光に譲ることを利勝を経由して家臣達に申し渡したとき、井伊直孝一人が不安な様子を見せていた。

利勝は直孝を白書院へと連れてゆき理由を問いただした。直孝は、大坂の陣などで諸大名の財政が逼迫しているのにさらに将軍が隠居すれば、祝儀などにより金を使うことになり、民を虐げることにもなると危惧していた。それを聞いた利勝は、直孝の懸念を秀忠に伝えた。直孝の強い直言もあって秀忠も納得し、翌年の秀忠隠居は取りやめとなった。

将軍・家光が増上寺へ参拝へ向かおうとしていた時、櫓の白壁が欠損していることに気づいた。家光は松平信綱に修繕を命令したが、修繕は困難であった。

そこで信綱は、他の櫓の戸をはずし、壊れた部分に一時的に当てることによって修復したように見せかけようとしたが、利勝は、それは姑息なごまかしに過ぎず、無理であれば無理であると率直に言上すべきであると信綱を叱責した。

利勝は、最上義俊が最上騒動で改易されて浪人となった際、義光以来の重臣・鮭延秀綱の身柄を預かると、のちに召抱えて5,000石もの高禄を与えた。

しかし秀綱はこの5,000石を自分の家臣14人に公平に与えて自らは無禄の客分となり、その14家へ日々順に転々として寄宿し、余生を過ごした。

その14名は土井家では中級の家士に取り立てられ、大半の家は幕末まで続くことになるが、鮭延の没後、その恩顧に報いるべく古河に鮭延寺を建立して供養に努めた。

幕府の実力者として諸藩より評価されており、依頼を受けた場合は幕藩関係で事前の根回しや指南を行う取次の老中となって、その藩の指導をおこなった。

落胤説

利勝には家康の落胤という俗説がある。井川春良が著した『視聴草』には家康の隠し子であることが書かれている他、徳川家の公式記録である『徳川実紀』にも説が紹介されている。

この説によると、利勝は幼少時から家康の鷹狩りに随行することを許されたり(土井家は三河譜代の家臣ではない)、破格の寵愛を受けていたためである。また当時、家康は正室の築山殿との仲が冷え切っており、そのために築山殿の悋気を恐れて他の女性に密かに手を出して利勝が生まれた、という可能性も否定できないところがある。

森銑三は、父とされる信元と家康の性格を比較した時、短慮であった信元よりも、思慮深い家康の方が利勝の性格と共通する要素が深いと考察している。

なお、利勝自身は落胤と噂されることを大変嫌っていたと伝わる。

寛文2年(1662年)7月12日に死去した。享年76。

福井県小浜市城内鎮座の小浜神社に主祭神として祀られている。

 

5「幕政、家光・家綱の信任」

「加増の打診に断り」

忠勝は家光から駿府18万石への加増を打診されたことがあったが、家康が保有していた土地を拝領するのは勿体無いと辞退した。その後、甲府24万石への加増も提案されたが、これも辞退した。家光が辞退した理由を問い質したところ、忠勝は、大禄を食めば驕りが生じ、本多正純のように失脚への道を歩むかもしれない。加増を受けたとして、自分の代は驕りが生じなかったとしても、自分の後の藩主達が驕らないとも限らない、ゆえに謹んで辞退したと述べた。

また、忠勝には別の思慮もあった。大老の忠勝でさえ12万石の所領しか得なかったと言えば、周囲の幕臣たちも出世することに没頭せず、後世への模範となるだろうと、忠勝は考えていた。

しかし晩年には、何か大事が起こった時、12万石では幕府を守り立てるのに役立てないから、もう少し加増を得ておくべきであったとも述懐している。

本多 正純(ほんだ まさずみ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。江戸幕府の老中。下野国小山藩主、同宇都宮藩主(第28代宇都宮城主)。本多正信の長男で、正信系本多家宗家2代。

徳川家康の側近であったが、徳川秀忠の代に失脚した。

関ヶ原まで

永禄8年(1565年)、本多正信の嫡男として生まれる。当時、正信は三河一向一揆で徳川家康に反逆し、それによって三河国を追放されて大和国の松永久秀を頼っていたとされるが、正純は大久保忠世の元で母親と共に保護されていたようである。

父が徳川家康のもとに復帰すると、共に復帰して家康の家臣として仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康に従って本戦にも参加している。戦後、家康の命令で石田三成の身柄を預かっている。また、父・正信とともに徳川家の後継者候補に結城秀康の名を挙げて、これを推挙している(「大久保家留書」)。

家康存命中

慶長6年(1601年)2月、従五位下・上野介に叙任[2]。慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、家康に重用されるようになる。