また、この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を真田信之へ嫁がせて懐柔するきっかけともなった。

真田氏はその後豊臣政権に臣従しており、上田合戦に至るまでの諸勢力との外交や数ヶ郡を支配する勢力拡大は、真田氏が小領主から大名化していく過程であると指摘される。

上田市立博物館には、神川合戦の合戦図が所蔵されている。

なお、この上田合戦に連動して天正13年(1585年)9月から天正14年(1586年)5月まで間、沼田城にも北条氏が数回に渡って攻撃を仕掛けていたが、昌幸の叔父にあたる城代矢沢頼綱(矢沢頼康の父)が撃退に成功している。

昌幸や徳川家康、上杉氏は豊臣政権に臣従。後北条氏は天正18年(1590年)からの小田原征伐により没落し、家康は関東に移封された。慶長3年(1598年)、

秀吉が死去し、豊臣政権では五大老筆頭の地位にあった家康の影響力が強まる。反徳川勢力は五奉行の石田三成を中心に結集し、慶長5年(1600年)6月、家康が会津の上杉征伐の兵を起こして大坂を離れると、三成は毛利輝元を総大将として西軍を組織し挙兵した(関ヶ原の戦い)。

昌幸は東軍の指揮を執る家康に従っていたが、慶長5年(1600年)7月下旬、下野で次男・真田信繁(幸村)とともに離反して上田に帰還し西軍に与した。これに対し、長男の信幸は東軍に従った。

通説では、西東軍どちらが勝利しても真田一族が残れるよう分かれたとされる。しかし近年は信之の妻が家康の養女であり、信繁の妻は大谷吉継の娘で昌幸の妻が石田三成の妻とは姉妹の関係にあったことが理由と指摘されている。

徳川家康が指揮を執る東軍は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知って、軍を西に返した。この時、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠が指揮を執る3万8000人の軍勢は宇都宮に留まり上杉への備えに当たった後、信濃国平定のため中山道を進んで上田城へ向かった。

9月2日に秀忠は小諸に到着した。9月3日、昌幸は上田に接近した徳川軍に対して、嫡男・信之を通して助命を懇願してきたので秀忠はこれを受諾する、ところが4日になり昌幸は態度を変え秀忠に対して挑発的な態度をとったため戦闘状態に入った。

秀忠軍は9月5日、上田城に接近し[3]、真田信繁の守る上田城の支城・戸石城に対し、信繁の兄である信之の軍勢を差し向け、信之軍は戦わずして戸石城を接収した。

戸石城を落とした後、秀忠軍は9月6日に牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始めた。

苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から出てきたが敗れ、上田城へと逃走。それを追撃し上田城の大手門前まで迫ったが、ここで秀忠より撤退命令が下る。その後、8日に家康より上洛命令が下り、秀忠は上田に押さえの兵を残して美濃方面に転身する。

通常、第二次上田合戦は『烈祖成蹟』に「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と記されるように、大規模な合戦が行われ秀忠軍が大敗し、またこの敗戦により関ヶ原合戦に遅参したと考えられていた。

しかしこれらを裏付ける当時の史料は無く、家譜類に刈田を起因とする小競り合いが記載されるのみである。

また秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、9日に一旦全軍を小諸へと撤収した直後に家康の書状を携えた使者が到着し、その内容が「九月九日までに美濃赤坂へ着陣すべし」とされるが、森忠政宛秀忠文書から秀忠が上洛の報を受けたのは先述のように8日の上田である。

秀忠は上田城に押さえの兵を残して先を急いだが、そもそも8日に上洛命令が到着したことから15日の関ヶ原本戦には間に合うはずも無かった。

松代城にあった徳川方の森忠政がこの戦闘後も葛尾城に兵を置いて上田城を見張らせていたことから、信繁が夜討・朝駆けを敢行し小競合いが続いたとされる。

また、追撃した牧野康成・忠成父子は部下を庇って出奔したため、一時謹慎となった。

 

4「老中罷免から大老就任」

寛永元年(1624年)8月には3代将軍家光の上洛に従い、上総、下総、武蔵の3国のうちから2万石を加増されて、その11月に土井利勝と共に本丸年寄(老中)となる。寛永4年(1627年)11月14日、父の忠利が死去し、遺領を継いで8万石となり、川越藩2代藩主となる。

寛永9年(1632年)9月19日、武蔵のうちから2万石加増され、同年12月1日には従四位下に昇叙し、侍従に遷任し、讃岐守の兼帯留任。寛永11年(1634年)閏7月6日には、若狭1国および越前、近江、安房に加増され、若狭小浜へ移り、12万3500石を領する。将軍・家光から忠勝一代は国持大名とされた。

寛永15年(1638年)11月7日には、土井利勝と共に老中を罷免され、大事を議する日のみの登城を命じられる。これが後の大老職の起こりとなる。寛永20年(1643年)11月4日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将に転任。讃岐守の兼帯留任となる。明暦2年(1656年)5月26日に家督を四男の忠直に譲って隠居する。晩年は、若年にして酒井氏嫡流雅楽頭家の家督を継いだ忠清を後見していたという。