応永15年(1408年)に義満が没すると、その葬儀に際しては将軍義持、舎弟義嗣日野重光(義満の義弟)とともにひきづなを取った。

   義満死後は室町殿の地位を継いだ4代将軍足利義持を補佐したが、応永16年(1409年)6月には義持の後見人となった父に管領職を代わり、さらに8月には管領職は義重の嫡男である義淳に任じられて義将はその後見となり、義重はさらにその代行として将軍家御教書に花押する立場となった(『東寺百合文書』)。

   こうして義将は室町幕府における義将-義重-義淳の武衛家三代の体制を整えたが、まもなく義将は没して、義淳も管領職を解かれたため、斯波氏主導の体制も終焉を迎えた。

   後半生

   義将の死によって義重は斯波一門の実権を得たものの、晩年の義将による斯波氏主導の幕政は周囲の反感を招いており、従弟の満種が将軍義持の忌避に触れて加賀守護を奪われた上に応永21年(1414年)には高野山へ隠棲するなど、幕閣における斯波氏の立場は徐々に弱まる結果になった。

   それでも斯波氏が幕府第一の家門で、自身も幕閣の重鎮であることに変わりはなく、将軍義持も度々武衛邸を訪れている。

   宿老としての義教は応永20年(1413年)の正月11日に行われた評定始では真言院の再建を提案、幕閣の大名1人につき100貫文を供出するよう進言し、翌年12月19日の称光天皇即位式には諸侯中最高の200貫700文を即位用途として献上するなどの活動が見られる。

   また領国の経営も積極的に行い、3ヶ国の守護国の中でも特に尾張の経営に力を入れ、尾張国衙領に対して織田氏・甲斐氏・二宮氏などの重臣を給人とし、年貢を徴収する体制を設定した。これに伴い尾張国内の国人を被官化させるなど、尾張の守護領国化を強力に推し進めた。その他にも寺社勢力との関係改善や強化に努めている。

   応永25年(1418年)8月10日、俄かに病を発した。義重はこの時に死期を悟ったのか、その日のうちに石清水八幡宮に馬1匹と越前国山本荘の年貢3000疋を寄進した。

   同月17日には将軍義持の見舞いを受けたが、翌18日の申の刻に死去した。享年48。遺言によって遺骸は嵯峨の法音院(洪恩院か)に土葬された。法名は興徳寺殿道孝大純。

   人物

   父の義将と同じく文化に造詣が深く、その歌は勅撰和歌集『新続古今和歌集』に選ばれている。

   また連歌にも優れ、室町中期の連歌師である心敬は当時の連歌の「大家」として細川満元赤松義則とともに義重の名を挙げている(『大日本史料』)。

   この文化への造詣の深さは「数寄に惹かれた」と伝わる嫡子義淳にも受け継がれている。

   能書家としても知られ、頓聴寺愛知県一宮市)に掲げられる「萬松山」の扁額は、義重の筆によるものといわれる。

   幕末から明治にかけて刊行された『尾張名所図会』の「頓聴寺萬松山」の項には、「名所の印あり。実に能書にして古雅なり」とあるように、その筆は後世にも評価されている。

   死の直前、己の死期を悟った義重は静かに端坐合掌して往生したといわれる。死後、人々がその死に様を拝みに集まり、ついには将軍義持も見に来たという。

   後述する東海璚華集でも評されるように、義重は教養を備えた思慮深い人物[13]であった。

   また伏見宮貞成親王も、義重が死去した際には『看聞日記』にて「世のため人のために穏便の人であった」とその死を惜しんでいる。

   真偽の程は分からないが義持の弟義嗣が反逆した際、義嗣に加担した者として噂されたという(『看聞日記』)。

 

Ø  また、義満が増強していた直轄軍の馬廻(奉公衆)はこの戦いで大いに働き、将軍権力の力を示した。

Ø  同年2月、山名義理は紀伊で大内義弘に攻められて没落。応永2年(1395)、剃髪してになり九州の筑紫まで落ち延びていた満幸も捕らえられて京都で斬られた。

   その後も義満は明徳の和約で南北朝合一を成し遂げ、応永6年(1399)大内義弘を挑発して挙兵させて滅ぼし(応永の乱)、将軍権力を固めていく。

   一方、山名氏はこの乱では幕府方として活躍し、その戦功により(大内氏を牽制する意図を含めて)山名時熙に備後、山名満氏に安芸、山名氏利に石見が与えられた。満氏・氏利兄弟は氏清の遺児であったが、時熙に匿われてその後赦免を受けていたのである。

   乱の様子を詳細に記した『明徳記』は太平記の流れを汲む軍記物語で、著者不明で全3巻。同書は資料性は高いものの、幕府寄りの視点で書かれている。