有力守護大名の弱体化を図る義満は義弘の勢力拡大を危惧し、少弐平定後に義弘に対して上洛命令を出した。

   しかし義弘は命令に応じず、義満は引き続き義弘を圧迫して上洛命令を出し続けるなどの挑発を行なった。

   応永の乱

   義弘は遂に追い込まれた。窮地を脱するには挙兵して義満を倒すしかないと判断し、応永6年(1399年10月13日、義弘は弟の弘茂と共に軍勢を率いて、分国である和泉堺ノ浦に上陸する。

   家臣の平井新左衛門を入京させるが、自身は入京しなかった。

   義弘は反幕勢力の結集を図り、鎌倉公方足利満兼や義満によって一方的に九州探題を解任され失脚していた今川了俊(貞世)、先年の土岐康行の乱で没落していた美濃土岐詮直、明徳の乱で滅ぼされた山名氏清の嫡男・宮田時清近江京極秀満出雲守護京極高詮の弟)や比叡山興福寺衆徒楠氏・菊池氏ら旧南朝方と連絡を取り、挙兵を促した。しかしこれら地方の反乱は強大な義満の前にほとんど無力で、多くが鎮定される。

   義満は義弘の懐柔を試みるが、義弘は鎌倉公方の足利満兼と通じて挙兵、堺に城砦を築き、備えとした。

   これが応永の乱のはじまりである。義満は禅僧の絶海中津を派遣して降伏を勧めるが、義弘はそれを丁重に拒否する(応永6年10月27日)。

   もっとも、その後も足利満兼から預かった興福寺衆徒に対する御教書の送付を中津との会談後も躊躇しており、和戦の間で心が揺れ動いた。

   だが、翌28日に義満が義弘討伐の治罰御教書を発し、11月に入って堺にもその報が入ると、義弘は覚悟を固め、謀反ゆえに運命が尽き、討死は必定と考え、自身の葬儀を執り行い、四十九日法要までも行った。

   そして周防に残してきた老いた母にも色々な形見と文を添えて送った。また、同じく周防に残っていた盛見にも手紙を送り、国許の守りを固めるよう申し送った。義弘は5,000(一説には3,000)の軍勢を率いて和泉のに籠城して満兼の援軍を待つとともに、最期の戦いを開始した。

   義満は細川頼元赤松義則畠山基国畠山満家斯波義将斯波義重らを主力とする3万余の兵士を率いて堺へと迫った。

   大内勢は圧倒的な戦力で攻め寄せる足利勢を何度も撃退し、意気軒高であったが、12月21日、義満が奉公衆を率いて火攻めなどを行うと、大内方は劣勢となり、家臣の多くが討死を遂げた。

   義弘は死を覚悟し、散々に足利勢を打ち破った末、最後は畠山満家に討ち取られた。

   堺で兄と共に籠城していた弘茂は自害を思いとどまって降伏。最終的には赦されて大内氏の後継者として認められる。

   しかし、国許に残った盛見が抵抗を示し、両者による家督争いが勃発する。

   墓所は山口県山口市保寧山瑠璃光寺。弟で次代の盛見は、義弘の菩提を弔うために瑠璃光寺五重塔の建立を計画した。

   完成したのは、嘉吉2年(1442年)頃と伝えられている。現在は、大内文化の最高傑作として国宝に指定されている。

   義弘は、その五重塔の下に眠っているという。また死地である堺の本行寺に供養塔がある。肖像画は山口県立山口博物館に所蔵されている。

   外交政策

   大内氏は百済王族琳聖太子の末裔を自称し始め(応永6年(1399年)には渡海して倭寇を討伐した功を基に、百済の故地に土田を賜りたい旨を朝鮮に願ったところ、高麗国王は受諾の意向を持ったが、家臣の反対にあい思いとどまったため成し遂げられなかった)、朝鮮半島高麗中国大陸とも独自の貿易を行なった。

   もともと対外通交は九州探題の今川貞世が独占していたが、その失脚により当時は義満の信任を受けていた義弘が交渉の窓口となる事を幕府から公認されていた。

   それと同時に義満からは倭寇の取り締まりも命じられており、義弘は義満の信任を背景に貿易上有利な立場を築いていく。

   倭寇によって日本に連れ出されていた捕虜を朝鮮に返して、代償として高麗版大蔵経李氏朝鮮に求めた。

   しかし貿易の独占・利権は義満も注視していたため、次第に義満・義弘は外交上の問題からも対立を深めていく事になる。

   人物像

   優れた武人であり、気骨のある武将であったと伝えられる。一方で歌道に優れ、宗碩との交流があったほか、『新後拾遺和歌集』の作者に列するほどの文化人でもあった。

   また、応永6年11月に和泉国の旧南朝系領主の和田氏に安堵状を出している(「和田文書」)。

   これは応永の乱を前に発給したものであるが、北朝年号で作成し、なおかつ軍勢催促を示す文言を入れなかった。

   これは後日、同氏に累を及ばさず支証文書として用いることができるようにとの彼なりの配慮であったと考えられる。

   更に応永の乱は最終的には紀伊国・石見国の国人の離反などによって敗北したと説かれる場合が多いが、当時の守護が苦心していた国人・地侍をある程度動員できたことからこそ発生した離反と解することも可能であり、むしろ義弘の優れた領国経営の裏返しと解する見方もある。

 

Ø  次いで、満幸の軍勢2000騎が内野へ突入した。守る幕府軍は細川頼之・頼元兄弟、畠山基国京極高詮の3000騎で激戦となるが、義満の馬廻5000騎が投入されて勝敗は決した。敗れた満幸は丹波へ落ちた。