家督相続

   天授6年/康暦2年(1380年)に父が死去するが、その前後から弟の満弘との間で長門・安芸・石見などで家督をめぐる内紛(康暦内戦)を起こし、永徳元年/弘和元年(1381年)に幕府の将軍・足利義満の支持を得て勝利した。 6月に家督を争った満弘と和解し、義弘は家督と周防・長門・豊前の守護職を、満弘が石見を保つ事になる(ただし、石見も義弘が守護で満弘は形式的な国主であったとする説もある)。

    その一方で、満弘方についた武将が余りにも多い事や父の死去後に満弘との和解が成立していることから、満弘の背後には父・弘世がおり、その死も一連の戦いでの戦没とする見方がある。 

   元中3年/至徳3年(1386年6月15日には家臣の仁保因幡守を使者にたてて、父弘世の碑を高野山成慶院に立てさせた。

   勢力拡大

   室町幕府は有力守護大名の寄合所帯で、将軍の権力は弱かった。そのため第3代将軍・足利義満は権力の強化を目指して花の御所を造営、直轄軍である奉公衆を増強した。

    義弘は義満の家臣として忠実に働き、元中6年/康応元年(1389年3月に義満が厳島詣のために西下すると、12日、義満を周防都濃郡降松浦で迎え以後随行することとなる。

   13日周防三田尻の松原に宿泊施設を設営し義満を歓待する。14日午後3時から5時頃、義満一行の船は出帆し九州を目指すが、西風が吹き波が高くなったため向島の浦に停泊する。

   15日、再び西を目指し周防吉敷郡赤崎の浦まで進むが風と波があり岩屋の浦に戻る。

   雷や波が激しくなったためその日の夜、義満は田島の浦(現防府市中浦地区)に上陸し漁師の家に宿泊した。九州へ向かうことを断念した義満はここより帰京することとなる。

   18日周防熊毛郡竈関(現上関町)を出発。26日、義弘の船は摂津兵庫に到着。さらに随行して27・28日上洛する。

   以後、義弘は幕政の中枢に参加し、在京する事が多くなった。

   この間の天授5年/康暦元年(1379年)には高麗からの要請を受けて倭寇勢力と戦い、慶尚道までも追跡したものの、現地の高麗軍の非協力によって敗退し、高麗側より謝意の使者が送られている。

   こうした活動に対する朝鮮側の高い評価は李朝の成立後の応永2年(1395年)11月に李朝と大内氏との間に直接通交を成立させることになる。

   元中2年/至徳2年(1385年)には、義弘は満弘から石見国を没収しているが、代替として豊前国が与えられたとみられ、以後の満弘は大内氏の九州拡大の中核として活躍する。

   義満は危険と判断した有力守護大名の弱体化を図り、天授5年/康暦元年(1379年)には細川氏斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させた(康暦の政変)。

   また、元中6年/康応元年(1389年)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、追討軍を派遣して康行を降伏させた(土岐康行の乱)。

   元中8年/明徳2年(1391年)には11カ国の守護を兼ね「六分の一殿」と呼ばれた大勢力・山名氏の分裂を画策し、山名時熙と従兄の氏之を山名一族の氏清満幸に討たせて没落させた。

   さらに氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込んで討伐。山名氏は3カ国を残すのみとなってしまった(明徳の乱)。

   このような義満の権力強化策に義弘は協力、明徳の乱でも一軍の先方として出陣。200騎を率い神祇官の杜を背に東寺に陣を構えた。元中8年/明徳2年(1391年)洛西内野で勇戦し氏清の家臣の小林上野守一騎討ちで破るといった武功を立てた。

    この武功により元中 9年/明徳3年(1392年1月4日、山名家の旧領である和泉や紀伊の守護職を与えられ、弟の満弘や自らの守護領国を合わせて6か国の太守となる。

    義弘は山名氏が紀伊国の前守護の山名家が押領した荘園の返却を行う一方で、荘園領主と対立することが多かった国人や地侍の知行を保証して給人化を進めている。

   義満はこれら一連の功績・忠節を認めて義弘に明徳4年(1393年)12月に足利将軍家に準じる事を認める御内書を発している。

   義弘は足利将軍家への忠節を誓っており、応永2年(1395年7月20日に義満が出家した際にもそれに従って出家し、入道となった。

   義満との対立

   応永4年(1397年)、義満は北山第の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めた所、諸大名の中で義弘のみは「武士は弓矢をもって奉公するものである」と武人としての信念を貫いてこれに従わず、義満の不興を買った。

   同年末に義満に少弐貞頼討伐を命じられ、2人の弟である満弘と盛見に5千騎あまりを付けて派遣しこれに当たらせるものの苦戦が続き、筑前で満弘が討死を遂げる。

   にもかかわらず満弘の遺児への恩賞が無く、実は義満が少弐貞頼らに大内氏討伐をけしかけていたとの噂も流れ、義弘は不満を募らせていく。

   応永5年(1398年)、義弘は満弘を討たれた報復として九州に出陣して少弐家を討った。