また、直義の目指した鎌倉幕府の継承路線は形骸化され、師直が推進した将軍の命令とその実施を命じた執事の施行状・奉書の発給によって上意下達が行われていく室町幕府の指揮系統が確立されることになる。
Ø その後、将軍を継いだ義詮によって執事の廃止と更なる将軍の親裁権の強化が図られたが、その早世によって挫折する。
Ø そして、幼少の3代将軍義満を補佐するために、執事が引付頭人の職権を吸収した新たな役職「管領」が成立することになる[9]。
Ø 南朝の延命
Ø 室町将軍の権威強化の一方で師直によって吉野を落とされ滅亡寸前にまで追い込まれた南朝は、直義・尊氏が交互に降りたことで息を吹き返し、その結果南北朝の動乱が長引いた。
² 北朝内の皇統対立
Ø 後光厳、後円融、後小松、称光と4代にわたって後光厳系が皇位についた一方、兄筋の崇光上皇の子孫は嫡流から排されて世襲親王家である伏見宮家として存続し、北朝内部でも皇位継承をめぐる両系統間の確執があったとされている。
Ø 結局、後光厳の系統は称光の代で途絶え、後南朝を牽制するために伏見宮家から皇統を迎えて後花園天皇(崇光の曾孫)とし、以降皇位は伏見宮家から擁立することとなった。
² 武将間の対立
Ø 一度直義に与した武将達と、一貫して尊氏に従った武将達との間で派閥が現れ、守護大名を勢力の中心として2つの派閥が拮抗する情勢が生まれた。義詮の晩年の頃には、この対立が顕著になっていた。
8「氏清・満幸など不満で蜂起促す」
Ø 同年11月、満幸の分国出雲において後円融上皇の御料である仙洞領横田荘を押領して、御教書にも従わなかったとの理由で、満幸は出雲守護職を剥奪され京都から追放されてしまった。
Ø 仙洞領の保護はかつて応安大法によって規定されたもので、同法の施行時には守護や守護代が召集されて、当時幼少であった将軍義満および管領細川頼之から直々に遵守を命じられた経緯がある土地政策の基本法令であった。
Ø 当時、幕府による守護統制は重要な課題となっており、幕府にとって重要法令と言える応安大法を無視した守護・満幸に対して解任という厳しい処分を下すことで、他の守護に対しても警告を示すと言う側面もあった。
Ø 怒った満幸は舅の氏清の分国和泉の堺へ赴いて「昨今の将軍のやり方は、山名氏を滅ぼすつもりである」と挙兵を説いた。
Ø 氏清もこれに同意して一挙に京へ攻め上ることを決意する。満幸を分国丹波へ帰国させて丹波路から京へ攻め寄せる準備をさせ、氏清は堺に兵を集めると共に、兄で紀伊守護の義理を訪ねて挙兵を説いた。義理は躊躇するが遂に同意した。氏清は大義名分を得るために南朝に降り、錦の御旗を下賜される。
錦の御旗(にしきのみはた)は、天皇(朝廷)の軍(官軍)の旗。略称錦旗(きんき)、別名菊章旗、日月旗。赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり、描いたりした旗(この日之御旗と月之御旗は二つ一組)。朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に与える慣習がある。承久の乱(1221年(承久3年))に際し、後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が、日本史上の錦旗の初見とされる。
中世における錦の御旗
官軍の大将を示す旗に関しては初めから定まった形があったわけではない。源頼朝の奥州合戦では「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号と鳩の意匠が入ったもの(『吾妻鏡』)が用いられ、後醍醐天皇が笠置山に立て籠もった際には日輪と月輪の意匠が入ったもの(『太平記』)が、室町幕府初期には「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号と日輪の意匠が入ったもの(『梅松論』)が用いられたと伝えられている。
後に室町幕府では日輪と「天照皇太神」と入った錦の御旗と足利氏の家紋である二両引と「八幡大菩薩」と入った武家御旗(幕府の旗)の2種類が用いられた。錦の御旗を用いるには天皇の治罰綸旨が下されることが必要とされていたが、実際の御旗は綸旨を受けた側(この場合には室町幕府)が自分で用意する必要があった。
このため、錦の御旗の大きさや旗竿の長さなどは武家御旗のそれとともに武家の故実に属していた。また、錦の御旗を掲げる事が出来る大将は足利氏を名乗れる将軍の一族、武家御旗を掲げる事が出来る大将は足利氏の一門に限定されていた。
戊辰戦争と錦の御旗
1868年(慶応4年)正月、鳥羽・伏見の戦いにおいて、薩摩藩の本営であった東寺に錦旗が掲げられた。
この錦旗は、慶応3年10月6日に薩摩藩の大久保利通と長州藩の品川弥二郎が、愛宕郡岩倉村にある中御門経之の別邸で岩倉具視に委嘱された物であった。岩倉の腹心玉松操のデザインを元に、大久保が京都市中で大和錦と紅白の緞子を調達し、半分を京都薩摩藩邸で製造した。もう半分は品川が材料を長州に持ち帰って錦旗に仕立てあげた。
その後、鳥羽・伏見の戦いが始まると、朝廷は征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王に錦旗と節刀を与えた。
新政府(官軍)の証である錦旗の存在は士気を大いに鼓舞すると共に、賊軍の立場とされてしまった旧幕府側に非常に大きな打撃を与えた。
当時土佐藩士として戦いに参加し、のちに宮内大臣や内閣書記官長などを歴任した田中光顕は、錦の御旗を知らしめただけで前線の旧幕府兵達が「このままでは朝敵になってしまう」と青ざめて退却する場面を目撃している。