良基は神器なしの新天皇即位に躊躇する公家に対して「尊氏が剣(草薙剣)となり、良基が璽(八尺瓊勾玉)となる。何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったと言われている(『続本朝通鑑』)が、当時、過去に後白河法皇後鳥羽天皇を即位させた例にあるように、即位に当たって神器の存在は必ずしも要件とはなっておらず、治天による伝国詔宣により即位が可能であるとする観念が存在していた。南朝方が治天を含む皇族を拉致したのはそのためだが、北朝方はその盲点を衝くかたちで女院を治天にするという苦肉の策でこの危機を乗り切ったのである。

   だが、この一連の流れは正平一統と相まって、後に北朝でなく南朝に皇統の正統性を認める原因の1つとなり、幕府と北朝の権威は大幅に低下した。

   時氏離反と道誉の伸長

   南朝との戦において一時は旧直義派との協力関係を構築できたかに見えた尊氏・義詮派だったが、正平8年/文和2年(1353年)には道誉と山名時氏・師義父子が所領問題で対立し、時氏が再び将軍側から離反するという事態を招く。時氏は出雲に侵攻し道誉の部将吉田厳覚を打ち破り出雲を制圧、そのまま南朝の楠木正儀と連合し6月、京都に突入する。

   義詮は正平一統破談の後に天皇を奪われ足利政権崩壊の危機を招いた経験から、まず天皇の避難を最優先に行なった。

   天皇を山門に避難させると、自らは京都に残り京都の防衛を試みたが結局打ち破られ天皇共々東へ落ち延びることになった。

   この中で道誉の息子佐々木秀綱が戦死、義詮は美濃にまで落ち延びる。義詮は独力での京都奪還を諦め尊氏に救援を求める。

   尊氏が鎌倉から上京すると時氏らは京都を放棄し撤退、足利方は京都を回復した。

   元来道誉は佐々木家庶流として武家方の事務官僚として恩賞の沙汰などを取り扱っていた。

   しかしながら天皇不在という緊急事態の解決や、南朝との戦において功績を示した。よってこの頃から義詮第一の側近としてその存在感は著しく大きなものとなった。

   彼は事実上の武家方の最高権力者となり政権の舵取りをするようになる。しかしながら彼にはトラブルメーカー的な側面も大きかった。

   これ以後道誉と対立した武将が武家方から離反もしくは放逐され南朝方に帰順するという政変・戦が繰り返されることになる。

   直冬蜂起

   近畿、関東において上記のような争いが続く間、九州では直冬が猛勢を誇っていた。

   もともと九州では尊氏が北畠顕家に敗れて落ち延び、その後上京した際に一色範氏(道猷)を九州探題として残していたが、道猷が在地の守護層と厳しく対立していた上、後醍醐天皇が自身の息子懐良親王征西大将軍として派遣し、懐良親王は菊池武光を指揮下に入れ勢力を伸長させていた。

   このような複雑な情勢の中で、国人層は恩賞を求め右往左往していた。

   直冬は九州へ到来するやいなや文章を多数発給し新たな主のもと勢力の伸長を目指す国人層から一定の支持を得た。

   尊氏は師直らと図り一色派の守護に直冬討伐令を出す。直冬は尊氏と対立する身でありながら、尊氏の実子という自らの立場を利用し勢力を伸ばしていた。一方で尊氏からは直冬討伐の令が発令されるという事態に対して直冬は「これは師直の陰謀である」と宣伝するという対応を取った。

   直冬は尊氏の本心が奈辺にあるのか一番よく分かっていたであろうが、直冬には尊氏の実子という立場以外この時頼るものはなかった。

   尊氏の直冬への憎悪自体常軌を逸した一種のパラノイアのようなものであり、遠く離れた九州の武士達には理解が及ばず、「尊氏の実子直冬が、逆賊師直を討伐すべく九州で兵を集めている」という直冬が提示した分かりやすい大義名分は次第に支持を集めていった。

   直冬の勢力伸長に対して、在地の守護の筆頭であった少弐頼尚は道猷を打ち破る為の旗頭として直冬に注目する。

   こうして正平5年/貞和6年(1350年)に直冬と頼尚は連合し、道猷を打ち破り博多を奪う。

   しかしながら正平7年/観応3年(1352年)に直義が死亡すると直冬の勢力は一気に崩壊、諸武士の離反が相次ぐ中で頼尚だけは最後まで直冬を支え続けたが結局直冬は九州から逃亡する。

   この際、直冬は九州を統治することではなくあくまで上京し尊氏・義詮を殺害することを目的としていたから、中国地方へ対する政治工作を活発に行なっており、直冬派が九州で崩壊した後も直冬は中国地方、特に長門石見では勢力を保っていた。

   正平9年/文和3年(1354年)5月には、桃井直常、山名時氏、大内弘世ら旧直義派の武将を糾合すると直冬は石見から上京を開始する。

   正平10年/文和4年(1355年)1月には南朝と結んで京都を奪還する。しかし神南の戦いで主力の一角山名勢が道誉、則祐を指揮下に入れる義詮に徹底的に打ち破られ崩壊する。

   直冬は東寺に拠って戦闘を継続したが、義詮は奮戦し徐々に追い詰められてゆく。

   そして最後には尊氏が自ら率いる軍が東寺に突撃し直冬は撃破され敗走した。尊氏は東寺の本陣に突入したあと自ら首実検をして直冬を討ち取れたか確認しており、尊氏の直冬への憎悪の程が推察される。

   直冬勢は結局このまま完全に崩壊し、直冬は西国で以後20年以上逼塞することになり、消息は明確でない。

   なお、大内弘世と山名時氏は正平18年/貞治2年(1363年)には幕府に帰順している。

   なお尊氏はこの一連の戦闘の間に受けた矢傷が原因となり4年後の正平13年/延文3年(1358年)に戦病死している。

   影響

   室町将軍の権力確立

Ø  この乱により、師直と直義に分割されていた武家方の権力は、将軍尊氏と嫡子義詮のもとに一本化され、将軍の親裁権は強化された。